法然上人の幸福論

法然上人の幸福論②-2「経典はフィクション?ノンフィクション?」

法然上人の幸福論②-2「経典はフィクション?ノンフィクション?」

経典はフィクション?

テレビドラマなどを見ていると、主人公にだんだん感情移入してきて、最後、ヒーローとヒロインが結ばれるフィナーレで感動に酔っていたら、

「この物語はフィクションであり、実在の人物・団体とは一切関係ありません。」

とテロップが表示され、高ぶっていた感情が少しだけ冷めることがある。「やっぱりそうよね」と納得する。このドラマがきっと作り話であろうことは、最初からわかっている。でも、もしこのドラマがノンフィクションだったら、自分の身にだって同じような幸せが訪れる可能性がかすかにある。その夢を見させてほしかったなと思う。

ところで、経典は、フィクションなのか。ノンフィクションなのか。

経典は、「私はお釈迦さまからこのように聞きました(如是我聞)」というフレーズで始まるものが多い。つまり、経典には、お釈迦さま本人が弟子に語った実話であるとして記されている。

だから、江戸時代までは、中国から日本にわたってきた経典の言葉は、すべてノンフィクションだと信じられてきた。だが、明治時代以降に古代インド語で書かれた原典を用いた時代考証が進んだ。仏教は大別すると上座部仏教と大乗仏教の2系統があり、日本は大乗仏教が主流で、大乗仏教が依拠するのが「法華経」「阿弥陀経」「般若心経」などの大乗経典だが、いずれもお釈迦さまの没後数百年以上が経ってから成立したことが判明した。大乗経典はお釈迦さまの名を借りて、巧妙に語られたフィクションだということである。当然のことながら、明治時代の仏教界に激震が走った。先頭に立って「大乗仏教はフィクションだ」(これを「大乗非仏説論」という)と主張した村上専精は、還俗を余儀なくされている。

古くは聖徳太子が為政の指針に大乗仏教の精神を用いたことをはじめ、無数の人々が大乗経典をノンフィクションだと受け止めてきた。それなのに、仏教が伝来して千数百年が経った明治時代に、突如として「大乗経典はフィクションです」というテロップが流れる事態に陥った。なんとも壮大なコントのオチではないか。聖徳太子もあの世で盛大にズッコケたに違いない。

それでも、信じられる?

いまとなっては、大乗非仏説論は定説として受け入れられているから、私がこの立場を取っても波風が立つことはない。しかし、私たちが、大乗経典がフィクションだったとわかった後の、どこか冷めた空気感のなかで生きていることは確かだ。

はるか昔のインドで大乗経典を勝手に創作した人の素性が、いまさら判明することはないだろう。仏教に造詣が深い人物だったことは間違いない。修行を極めたお坊さんの言葉であってほしいなと思うが、ただのオッサン(オバサン?)がありがたい話を作り上げて吹聴してまわった、という可能性だって十分にある。

そうすると、阿弥陀如来の存在も、疑わしく思えてくる。

「阿弥陀経」などの経典には、お釈迦さま本人の言葉として、「極楽浄土の阿弥陀如来との超・遠距離恋愛は、心を込めて願えば必ず叶う」と書かれていたからこそ、会ったこともない阿弥陀如来がやがて迎えに来てくれるという約束を信じたいと思えた。それがもし、お釈迦さま本人の言葉ではなくて得体のしれないオッサンの作り話かもしれないとしたら、どうだろうか。

常識的に考えたら、阿弥陀如来への想いは冷める。大乗仏教とも、付き合い方を考え直そうと思う。

でも、日本の大乗仏教の信仰文化のなかに生まれ育ったことを、ハズレくじだったとがっかりしないでほしい。もう一方の上座部仏教では正確にお釈迦さまの語った言葉が語り継がれているかというと、決してそうでもないからだ。上座部仏教に遺された初期の経典までさかのぼれば、大乗経典を読んでいるよりもはるかに初期の仏教の思想が見えてくる。たとえば、ひとりでに存在するものはなにもなく、すべては縁って起こるという「縁起」の教えなどは、最初期から説かれていたであろう。しかし、経典のなかから、お釈迦さまが「縁起」について語った言葉を正確に取り出せるかというと、それはたぶん永劫に無理である。

つまり、日本が大乗仏教を重んじてきたからといって、恥ずかしく思う必要はなにもない。経典に書かれていることは、大乗仏教の経典であれ、上座部仏教の経典であれ、脚色に満ちているのだ。

仏教、ゲームオーバー…。

二次創作のクリエイティビティ

いや、私たちは、ここで思考のロジックを転換するべきだろう。

インドの仏教徒にとって、脚色になんら後ろめたさはなかった。むしろ正義だった。お釈迦さまが語り尽くさなかったところを、自分が代わりに語ろうと意気込んで、こぞって経典を創作する。その面白さを競って膨大な経典を生み出してきた。それなのに、私たちは「脚色なんて余計なことを…」とちゃぶ台返しをすること自体が、きわめて大人げない。

現代でも、「鬼滅の刃」などのアニメが流行れば、画才のある人は二次創作を始める。キャラになり切りたい人は、コスプレをする。ファンによる創作活動、表現活動は、原作者が定めるガイドラインを守ったものであれば、取り締まるべきものではなく、そこまで含めてアニメ文化だと楽しめばいい。

仏教においても事情は同じで、お釈迦さまから直接聞いたと装って経典を書いてきた人のクリエイティビティを、私たちは素直に喜ぶべきなのだ。原作者・お釈迦さまの言葉が正確に知れないのは少し残念ではあるが、不思議なもので、脚色に脚色を重ねても、お釈迦さまが定めたであろう仏教のガイドラインを大きく外れることはない。やはり、インド人にとって、仏教の世界観はネイティブな感覚をもって接することができたのだろう。時代に応じて、あるいは、語り聴かせる相手に応じて、お釈迦さまの言葉をうまく翻訳することは、訳もなかった。それだけでは飽き足らず、さらに新しいエピソードも盛り込んだりして、経典のクオリティを高めた。

学術的に見れば、大乗経典は脚色だらけのフィクションかもしれない。でも、大乗仏教が重んじる「空」の思想は、すべての存在には実体がないことを説くものであるが、これは「縁起」の思想に近しい。あらゆる人はホトケとなれる性質を持っていると説く「仏性」の思想は、お釈迦さまその人が菩提樹の下でさとりを開いたという仏教の原点に立ち返ったものだといえる。

だから、大丈夫なのだ。大乗経典は、フィクションのようでありながら、よく読むとお釈迦さまの意図を逸脱していない。私たちは、インドの仏教徒たちのクリエイティビティが凝縮された大乗経典を、安心して楽しめばいいのである。