法然上人の幸福論②-3「親の意見と法然上人の言葉は後で効く」
経典はコピペだらけ!しかも長い!
とはいえ、大乗経典が「仏教のエッセンスが詰まった珠玉のフィクション」だと、前向きにとらえられるとしても、実際に読んでみると、最初のうちは楽しくても次第に飽きてくる。なぜかというと、「盗作!」と思うほどコピペがはびこっているからである。
たとえば、お釈迦さまのつぎにさとりを開くのが弥勒菩薩で、現在は兜率天に暮らしているとされる。5億7600万年後にこの世に生まれ、修行する様子までが経典にはつぶさに書かれているが、この世での生涯のエピソードは、幼くして出家を志したり、菩提樹のもとで修行したりと、お釈迦さまの伝記を彷彿させる内容になっている。
阿弥陀如来は、あらゆる人々を救おうとする誓いを立てて修行し、さとりを開いて極楽という名の浄土を建立したという。誓いを立てて修行するとか、さとりを開いて浄土を建立するというのは、大乗経典で多用されるフォーマットであり、そのなかで使われる表現もコピペだらけである。
しかも、やたらと話が長くてまわりくどい。「阿弥陀経」の後半では、38人のブッダの名前を列挙したうえで(これでもほんの一握りを選抜したにすぎないらしいが)、「あらゆる世界の仏さまが阿弥陀如来を讃えている。だからこのお経を信じなさい」と圧をかけてくる。
私の子供はおねだりするとき、「クラスのみんながニンテンドースイッチを持ってる!」という具合に、「みんな」と言う。「田中君も、中村君も、佐藤君も…」とクラスメイト全員の名前を挙げたりしない。全員の名前を挙げてこられたら、親は説得されるよりは「うるさい!」となる。でも、経典を創作したインド人はとにかく全部言いたいから、そのせいで経典の叙述が無駄に長く感じる。
そんなわけで、大乗経典を読んでいると、最初のうちは「いい話やなぁ」と目が開かれるが、そのうち、「これさっき読んだのと同じやん」「わざわざ全部言わんでももうわかったから」みたいに冷める瞬間がしょっちゅう訪れる。経典作者には、インスピレーションを受けて伝えたい何かがあったのかもしれないが、それがうまく伝わってこない。阿弥陀如来や弥勒菩薩が実在するのかどうかも、わからなくなってくる。
経典と仲良くなるコツ
私も、いまとなっては純粋に楽しく大乗経典を読めるが、ここに至るまではずいぶん長い間スランプに陥っていた。合理的に考えて生きる現代の人間として、大乗経典をどう受け止めたらいいのか、悩みに悩んだ。
スランプから抜け出せた理由はおそらく2つあって、1つには、経典作者の気性がわかってきたから。つまり、ひたすら饒舌に語りたい人たちなんだと俯瞰的に理解できるようになった。これによって、異文化への理解が進み、くどいほどの饒舌さも楽しめるようになった。経典が書かれた時代のインドと、現代の日本でどう価値観が違うのかをおさえておくことは、仏教を学ぶための近道になると思う。いつか改めてまとめたいところである。
もう1つの理由は、饒舌に語られた経典の言葉をかいつまんで要約してくれる、親切な攻略ガイドブックに出会ったからである。「仏教ではこの世界がどのように成り立っていると考えるのか」「さとりの世界に向かっていくときに人間の心はどう変わっていくのか」などについては、4~5世紀の北インドの僧・世親のいくつかの著作から私は多くを学んだ。そして、「なぜ阿弥陀如来と心が通い合うのか」については、他でもなく、法然上人から学んだ。私が浄土宗の伝統のもとにいるから贔屓目に見ているわけではなく、阿弥陀如来への信仰に関しては、法然上人とその師匠である中国唐代の善導大師の理解力が、群を抜いていると思う。
いまは西方極楽世界に暮らす阿弥陀如来への恋心を、「超・遠距離恋愛」だと先に例えた。この世で生きている間には直接会うことはおろか、メッセージを交わすこともできないのに、阿弥陀如来を想い続けるのは、決して簡単ではない。経典に書かれた言葉は、作り話かもしれないと疑いたくなる。しかし、この2人は、「阿弥陀如来って本当にいるやん」と直観し、コピペだらけの経典のなかからエッセンスを取り出して、極楽浄土へと向かうためのガイドブックを作った。経典作者の意図をはるかに上回る深度で、阿弥陀如来への信仰を理解したと言っていいと思う。常人のなせるわざではない。
念仏は地獄が怖いから?
法然上人より200年ほど前の時代を生きた、恵心僧都源信(942-1017)という僧がいる。源信も、阿弥陀如来への信仰を日本に根付かせるのに、大きな影響を与えた人物である。『往生要集』では、生前に悪業を犯した人が堕ちる地獄の苦しみについて、つぶさに説かれている。実は、インドの経典やその解説書には、地獄についての描写が案外少ない。源信は網羅的に書物を読み漁って断片をつなぎあつめ、地獄がいかに恐ろしいところかをおどろおどろしく描き上げた。これ以上に詳しい地獄ガイドブックはもう二度と現れないだろうと思う。そして、源信はあわせて極楽浄土への思慕を喚起させた。つまり、いわゆる「厭離穢土欣求浄土」の世界観を日本の風土に刻み込むという、とんでもない偉業を成し遂げた。
でも、法然上人の捉え方はまるで違う。もっと本質的であり、合理的である。
地獄が怖いから、阿弥陀如来にすがって往生を求めるのではない。法然上人はもっとシンプルに、阿弥陀如来が私たちを思ってくれているから、その思いに応えるだけだ、と捉える。
実際、私たちの日常においても、「怒られるのが怖い」はあまり強いモチベーションにならない。求められるタスクをいちおうこなすだけで、プラスアルファのエネルギーを注ごうとは思わない。しかしもし、会社の上司や同僚であれ、好意を寄せる相手であれ、相手が「きっと喜んでくれる」と期待できたら、私たちは本気になる。力以上のものを出したくなる。
そう考えると、法然上人の視点は時代を超えて大切にすべき感覚を、率直に捉えている。
親の意見と法然上人の言葉は後で効く
この連載では、法然上人の主著『選択本願念仏集』をもとに、「お念仏から幸せがはじまる?」という問いに答えていく。『選択本願念仏集』は、昵懇の間柄にあった九条兼実のたっての願いを受け、66歳のときに著された。書名に冠せられている「選択」は、「選」も「択」もともに「えらぶ」という意味である。つまり、「阿弥陀如来がなぜ、坐禅や持戒など数多くある仏道修行を差し置いて、念仏こそを選(択)んだのか。それを、阿弥陀如来に成り代わって解き明かそう」という意図が、この書名に込められている。
私が『選択本願念仏集』を初めて読んだのは、おそらく20歳前後で修行道場に入っていた時期だと思う。正直なところ、「阿弥陀如来に成り代わって解き明かそう」という発想に、ついていけないと思った。
「超・遠距離恋愛」という特殊な状況ではなくて、ごく普通の恋愛だって、相手の気持ちがわかれば、こんな楽なことはない。きっと相手も好意を寄せてくれていると思って告白したら、あっけなくフラれる。そんなみじめな思いをすることもない。
でも、たぶんそれでいい。相手の気持ちが手に取るようにわかってしまえば、恋愛などつまらない。日頃は服装にこだわってこなかったけど、ダサいって思われないだろうか。どんなプレゼントを渡したら喜ぶだろうか。初めて振る舞う手料理は口に合うだろうか。正解がわからずに悩みながら、相手が幸せそうに喜ぶ顔を想像する時間もまた、恋愛の楽しみだろう。
宗教もまた、同じである。阿弥陀如来をはじめ神仏の気持ちがわかってしまう、法然上人のような天才が稀にいる。しかし、おそらく99パーセント以上の人は、それがわからない。わからないからもがく。地獄の業火に焼かれる様子や、極楽からのお迎えが来る情景を想像し、仏画に描いたりする。そこに宗教文化の味わいがある。
法然上人は、「とにかく念仏を続ければ、あとは何もいらない」と言う。でも、私たちは、やっぱり仏像や仏画を眺める楽しみを味わいたいと思う。「この仏像は彫りが深くてイケメンだなぁ」と、多少の後ろめたさを感じつつ、美しい仏像を愛でるのも人生の1ページであっていい。
「堂塔伽藍を建立する功徳よりも念仏のほうが優れている」らしいが、はるか天を指してそびえる五重塔を見上げて元気になるとか、金色のお堂に心洗われるとか、堂塔伽藍をめぐる楽しみもあっていいではないか。
だって、みんな凡人だから。
ただ、お寺にお参りしたとき、仏像を拝んだとき、どのような心構えで手を合わせるのか。そのもっとも核心となる部分を教えてくれるのは、『選択本願念仏集』だと思う。
この著作は理路整然と書かれていることもあり、味気ない。それに比べれば、『往生要集』の地獄譚のほうがドキドキしながら読める。できるだけわかりやすく読み解いていくつもりだが、『選択本願念仏集』 はどうしても退屈になりがちである。こればっかりは、法然上人が天才過ぎるせいなので仕方ない。でも、読んでおくと後々になって「ああそう理解すればいいのか」と納得できることがある。「親の意見と冷や酒は後で効く」という格言を思い起こさせるような著作である。