法然上人の幸福論

法然上人の幸福論⑤-1「ズボラ仏道の発明」

法然上人の幸福論⑤-1「ズボラ仏道の発明」

選択本願念仏集【第2章 善導和尚、正雑二行を立てて、雑行を捨てて正行に帰するの文】

(浄土宗では、「仏道修行イコール念仏」であり、坐禅などの他の修行は「雑多」なもの、いわば余計なものとして退けられる。なぜかくもシンプルに言い切れるのか。本章ではその理由が詳しく述べられている。)

作れないレシピなんて要らない

ふと書店に行ったら、あなたが憧れてやまない超一流フレンチレストランのシェフが、そのノウハウを惜しげもなく包み隠さず書いたレシピ本を出版していた、という状況を考えてみてほしい。表紙にはアート作品と見まがうような美しい料理の写真が載っていて、帯には「レシピ通りに作るだけで食卓が超一流レストランに」などと魅惑のうたい文句が書かれている。「私の手であのフランス料理の味が作れる日がまさか来るなんて!」と早合点して衝動買いし、「きっと家族も喜んでくれる!」と夢を見て、家に持ち帰ってにわかに料理熱を出す。

家族のためになんとかレシピ通りに作って、フルコースを振舞おうと躍起になっているあなたに対して、家族のほうはもちろん冷ややかである。新しい料理に挑むたびに今まで見たこともない調味料がキッチンに登場し、鍋やフライパンもかの有名シェフが使っているらしいものが毎日のように宅配便で届く。出来上がった料理に感動的な反応が返ってこなければ、「ここのキッチンは火力が足りないのかも…」なんて口に出してしまう。家族はもう返す言葉もない。

そう、家庭の食卓というのは、理想を追求しても幸せがもたらされる場ではない。それよりも、スーパーの広告を見ながら「今日は卵が安い!」という情報を仕入れたり、買い物に行ったら賞味期限が近い食材に「半額!」と書かれたシールを目にしたりするなかで、コストを抑えながら献立を考えていくのが、味気ないかもしれないが幸せな食卓への近道なのである。

仏道修行もまたしかり。

超一流フレンチレストランのシェフというのは、たいてい若き日に本場フランスの一流シェフのもとで何年もの研鑽を積んだりしている。仏教を開いたお釈迦さまも、王族の跡取りとして生まれたにもかかわらず、29歳のときに約束された地位や名誉のみならず妻も子供もすべて捨てて出家し、一流と名高かった何人もの修行者に師事して6年間にわたる修行を積んだらしい。その常軌を逸した行動の果てに、35歳にして「さとり」と呼ばれる究極の気づきがあったらしく、そこから仏教が創始されている。その後もお釈迦さまは、80歳で生涯を終えるまで、俗世の生活に戻ることはなく、出家者として布教の旅を続けた。

そんなわけで、日本のお坊さんも、宗派によって期間はまちまちだが、お寺にこもって修行するのが習わしになっている。私の場合は、大学生の頃に3週間の寺ごもりを4回経て、浄土宗のお坊さんになった。修行生活というのは、厳しいように感じられるかもしれないが、俗世のストレスはほとんどなくて、自分の内面の平穏を求めていく日々なので、慣れてくればただ清々しい。この清々しさを、修行生活を終えた後もできれば保っていたいと思うのだが、現実にはまあ無理である。物欲や食欲に押し流されたり、わずらわしい人間関係に苦しんだりしているうちに、さとりの風景ははるかに遠のいていく。特に結婚して子供ができてからは、家庭内で期待されるのは、「仏道を追求している立派なお坊さん」ではなく、もっぱら「遊んでくれる父親」「生活費を稼いでくれる夫」である。

ズボラでもできるレシピを

そもそもお坊さんなのにお酒も飲めば妻帯もしているのがいけない―ーそう批判するのは簡単だが、これは浄土教らしいスタンスではない。ズボラ生活をしながらでも仏教が実践できるならきわめて革新的だと考え、そこに挑んだのがまさしく浄土教の歴史だからである。

仏典とはさとりへのレシピ本だと言えるが、インドで著されたものは、一流フレンチレストランの書いたレシピ本のごとく高尚すぎるものばかりであった。たとえば、坐禅を実践して仏典を開いても、足の組み方とか呼吸のととのえ方のような初心者向けの実用的な情報は驚くほど記載が少ない。それよりも延々と記載されているのは、いわゆる無の境地がなんであるかなどの哲学的講釈である。念仏に関しても同じで、「念」や「仏」の定義を探すことはできても、たとえば一日何回ぐらい念仏を唱えればいいのかなどは、まったく書かれていない。出家者集団のなかで高度な修行を続けている人たちにとっては、このような初心者向けのチュートリアル――たとえていえば「野菜の切り方」「だしの取り方」のような――は無意味だったのかもしれないが、わかりやすいチュートリアルなくして庶民の生活のなかに仏教は深く根差さない。いや、もっといえば、「ズボラ飯」のレシピのように、いかに手抜きできるかに振り切ったほうが、庶民の心強い味方になれる。

だから、善導大師や法然上人は、専門家向けの仏典を大胆に換骨奪胎して、ズボラでもできる実用的なさとりレシピへと書き換えた。法然上人の『選択本願念仏集』第2章は、「行について、正雑二行を立てて、雑行を捨てて正行に帰する」(仏道修行を、大事なものと余計なものに分類し、大事な修行こそをよりどころにする)という章題が示すように、修行をとことん実践しやすいように組み立て直す意図のもとに書かれている。章の冒頭には善導大師の言葉が引用されているが、それをざっくり翻訳して書くと、

修行には、①正行(大事な修行)と②雑行(余計な修行)がある。正行とはなにか。それは、阿弥陀如来にまつわる経典を読み、阿弥陀如来の名前を唱え、供養することなどである。

行について信を立つといふは、しかも行に二種あり。一には正行、二には雑行。正行と言ふは、専ら往生の経によって行を行ずるもの、これを正行と名づく。行について信を立つといふは、しかも行に二種あり。一には正行、二には雑行。正行と言ふは、専ら往生の経によって行を行ずるもの、これを正行と名づく。

と修行が二種類に分類される。さらには、

正行(大事な修行)のなかでも、ひたすら阿弥陀如来の名前を念じる修行こそが、「正定の業」(本質的な修行)である。なぜなら、阿弥陀如来がそう願っているから。

また、この正の中について、また二種あり。一には一心に専ら弥陀の名号を念じて、行住坐臥、時節の久近を問はず、念々に捨てざるもの、これを正定の業と名づく。かの仏の願に順ずるが故に。

だと記されている。この一文は「立教開宗の文(新しく浄土宗を開くに至った言葉)」と呼ばれるほど、浄土宗では重んじられている。というのも、法然上人は、「ひたすら南無阿弥陀仏と唱えよ。なぜなら、阿弥陀如来がそう願っているから」というこの善導大師の言葉に接し、「ああこれだ!」と得心して念仏の教えに確信を抱いたからである。

でも、読者の皆さんのいまの気持ちを推し量るに、きっと法然上人の気持ちにピンと来ずに、

「阿弥陀如来がそう願っている」っていきなりどういうこと!?

と、ただぽかーんとしているに違いない。

したがって、法然上人がこの一文をどう受け止めたのかについては、私なりの理解を記しておく必要があるだろうが、字数を要するので次回に譲る。先に、本章で述べられるズボラ用の実践の枠組みについて、まとめておきたい。

正行(大事な修行)雑行(余計な修行)
読誦正行
阿弥陀如来にまつわる経典を読む)
読誦雑行
(阿弥陀如来に関係しない経典を読む)
観察正行
阿弥陀如来を心に描く)
観察雑行
(阿弥陀如来以外を心に描く)
礼拝正行
阿弥陀如来を礼拝する)
礼拝雑行
(阿弥陀如来以外を礼拝する)
称名正行
(阿弥陀如来の名前を唱える/正定の業)
称名雑行
(阿弥陀如来以外の名前を唱える)
讃歎供養正行
阿弥陀如来を讃えて供養する)
讃歎供養雑行
(阿弥陀如来以外を讃えて供養する)

実によく設計されていると思う。戒律を守るとか、坐禅を組むとか、無数の仏さまを供養するとか、仏道修行をあれもこれも欲張って行うのが悪いわけではないが、ズボラ人間にはどれも中途半端になるのがわかりきっているから、まずは阿弥陀如来だけを拝むようにしなさい、ということである。しかし、阿弥陀如来だけを拝むにしても、疲れ切っているときなどは、身体を動かして礼拝したり、お花や灯明で供養したりするのが、しんどかったりする。そうであれば、心を込めてひたすら「南無阿弥陀仏」と唱えるシンプルな実践を、わりきって修行の中心に据えるのがベストなのである。

鶏肉と念仏は似ている!?

本当にこんなに単純に組み立て直していいのだろうか、と疑念を持つ人もいるだろう。

わかりやすくするために、再び料理の話にたとえる。

あるとき、スーパーの肉コーナーに行ったら、近くにいた奥さまが夫らしき隣の男性に対して「鶏肉は安いときに買っとかなあかん」「冷凍庫に鶏肉があったらなんとかなる」と、格言めいた言葉で諭していた。

まさしくその通りだと思った。

スーパーの店内を歩いていると、食材やら調味料やら、食欲をそそる商品が次から次へと目に入ってくる。でも、あれもこれも買ったら、家計を圧迫するうえに、冷蔵庫のなかで賞味期限が切れて泣く泣く廃棄することになる。肉を買うにしても、ときには豚肉や牛肉を食べたくなるだろうが、仮に豚肉や牛肉に「広告の品」のシールが貼られて安くなっていても、鶏肉に比べればコストパフォーマンスが悪すぎる。他の肉に心を動かされることなく、鶏肉を買い続けるのが、食費を抑えて家計をうまくやりくりする極意である。しかも、鶏肉は安いのに、調理の自由度が高い。塩胡椒をして焼いてもいいし、カツにしても、唐揚げにしてもいい。スープに入れても出汁が取れる。冷蔵保存していて賞味期限が切れそうになったら、とりあえず味付けしてレンジで加熱してしまえば、サラダチキンになる。まさに庶民の味方。別に豚肉や牛肉に手を伸ばすのが悪いわけではないが、まずは鶏肉で生活を設計すべきである。「鶏肉は安いときに買っておけ」は至言というほかない。

そのうえで、家計に余裕が出てきたら、ときに牛肉に手を伸ばすのもいい。鴨肉や鹿肉などは、確かに高価だが、野性味があって鶏肉にはない味わいがある。

念仏も、実はこれと同じである。法然上人の言葉を読むと、さきほどの言葉と矛盾するのだが、「雑行」も仏道の助けになると教えていることがまれにある。

阿弥陀如来への信心が定まってからであれば、坐禅などの修行も阿弥陀如来以外を拝むのも、仏道の助けになる。

我が心、弥陀仏の本願に乗じ、決定往生の信を取るうえには、他の善根に結縁し助成せむ事、またく雑行となるべからず。

法然上人「二十二問答」

つまり、あくまで「念仏への信心が固まって、自分の生活のありようが整ってから」という条件付きであるが、いろんな仏道実践は学びをもらえる、という。

浄土宗の教えというのは、念仏のみにこだわって、他の実践と距離を置いているようでありながら、必ずしもそうではない。ひたすら「南無阿弥陀仏」と唱えている状態は、実際のところは禅の境地に入っている。また、阿弥陀如来を心から供養できるようになれば、他の仏さまを供養するときの態度も自然と身に付く。鶏肉からまずは生活を設計するように、「南無阿弥陀仏」と唱えるところから仏道修行に親しんでいくことで、結果的にはあらゆる実践への近道になっているのである。