法然上人の幸福論

法然上人の幸福論④「浄土教の革新、iPhoneのごとし」

法然上人の幸福論④「浄土教の革新、iPhoneのごとし」

宗祖≒インフルエンサー

これまで学んできたように、仏教でさとりを目指すには、出家して修行に打ち込む孤高の歩みとは別の選択肢、すなわち、阿弥陀如来がガイドをつとめる「極楽浄土へのパックツアー」に申し込む方法がある。

では、このツアーに参加するにはどのような手続きが必要なのか。

すでに書いたとおりであるが、仏教では、お釈迦さまの言葉を一言一句変えずに伝承することよりも、その教えを発展的に継承し、進化することに力点を置いてきた。その結果、経典が無数に遺されたのは大きな知的財産かもしれないが、これを読み込んでパックツアーへの申込方法を探し出すのには、たいへんな苦労をともなう。経典の成立時期や所属する流派によって教説はまちまちなので、読めば読むほど迷宮に入り込み、「なにが正解なんだろう?」と悩むことになる。

この感覚は、たとえば、家電量販店のスマートフォンコーナーに行ったときのそれに近しい。

電話機は、この数十年、劇的に進化を遂げてきた。

私は1980年生まれであるが、物心ついた頃、生家のお寺にあった電話は、液晶もなければ電源コードもない、シンプルな黒電話だった。しばらくすると、液晶やらメモリ登録機能やらがついた電話機に変わった。中学生ぐらいの頃にポケベルが普及し、高校生になるとPHSが登場し、大学に入った頃には携帯電話がそれに取って代わった。2010年代にはスマートフォンが普及し、動画もゲームも楽しめるようになった。

毎年、新機能を備えた機種が発売され続け、家電量販店に行けば、さまざまなキャリアのコーナーに、目移りするほどのスマートフォンが並ぶ。それぞれの横にはスペック表があり、画面の大きさ、カメラの画素数、OSのバージョン、CPUの名称、メモリのサイズ、本体の重量、充電池の容量などがすべて記されている。購入するときには自分にふさわしい1台に決めなければいけないが、よほど機械に強い人でなければ、スペック表の情報のほとんどはちんぷんかんぷんで判断材料にならない。仕方がないから、YouTubeにアップされているインフルエンサーのレビュー動画をチェックするなどして、おススメだと評判の機種を購入する。

仏教も同じで、インフルエンサーのレビューを参考にしなければ、膨大な経典のなかから読むべき一冊を決められない。逆に言うと、中国や日本では、経典のレビューを行うのは昔からお坊さんの大きな役目であり、各宗派の祖師はおススメの経典を決めて、その経典の教えを中心にして教義を体系化してきた。これを教相判釈(きょうそうはんじゃく)という。

法然上人は、『選択本願念仏集』第1章のなかで、

阿弥陀如来の極楽浄土への往生を説いた『無量寿経』『観無量寿経』『阿弥陀経』こそを「浄土三部経」として大事にしなさい。

と記していて、浄土宗では阿弥陀如来が主役として説かれるこれら3つを敬うように定めた。

私が読んだ限りでも浄土三部経はおススメに値する経典だと思うので、法然上人とは違う角度から私なりのレビューを加えておきたい。

一切衆生を極楽浄土に迎えてくれるという阿弥陀如来のスペック(恐れ多い表現だが)は、他の仏さまと比べても極めて高い。たとえば、薬師如来を拝むと病気平癒に効力が期待できるらしいから、コロナ禍のときのようににわかに薬師信仰が高まることはある。しかし、仮にいま罹患している病気が治っても、人間がやがて死ぬ定めであることは避けられない。死んで以降、長い歳月にわたって極楽浄土での幸せな生活を約束してくれる阿弥陀如来のほうが、よっぽど頼もしい

あるいは、弥勒菩薩はどうか。弥勒菩薩は、「お釈迦さまの次にこの世でさとりを開いてブッダになる存在」として信仰を集めてきた。ただし、この世に生まれるのは56億7千万年後というはるか未来であり、いまは兜率天でじっと待機中である。対する阿弥陀如来は、『阿弥陀経』によれば、すでにさとりを開いてまさにいまも極楽浄土で教えを説いている。どちらを頼るべきかとなれば、阿弥陀如来に軍配があがる。

浄土三部経は、分量的にコンパクトなのもいい。『無量寿経』は2巻、『観無量寿経』と『阿弥陀経』は各1巻で、合計4巻である。これに対し、「あらゆる人間はブッダになれる資質を持つ(一切衆生悉有仏性)」と教えてくれる『涅槃経』は、ひとりひとりの個性を尊重する現代にはフィットする経典だが、全40巻もある。読み始めてもこの教えに出会うまでに挫折してしまう人が多いだろう。

師匠、その解釈、間違ってます!

だから、法然上人が教えてくれたように、浄土三部経を敬って阿弥陀如来を拝んでいくというのは、冷静な判断として、すごく優れた仏教へのアプローチである。

しかし、この先に、浄土宗の教義を理解するうえで、おそらくは最大の関門が待ち受けている。

「専修念仏」という言葉で表される浄土宗の教えは、要するに「ひたすらナムアミダブツを唱えなさい」という意味である。では、浄土三部経は、専修念仏について詳しく書いているかというと、決してそうではない。浄土宗の教義をいったん忘れて、虚心に浄土三部経を読んだら、「ひたすらナムアミダブツを唱えよう」という結論に達することはまずありえない。

経典の内容を少し具体的に見ていこう。

『観無量寿経』は、「阿弥陀如来(=無量寿仏)を観察する」という名称が示すように、極楽浄土の情景やその主である阿弥陀如来の姿を心に描くという瞑想のプロセスが、内容の大半を占める。でも、法然上人は、『観無量寿経』を敬うように説いているにもかかわらず、

阿弥陀如来の姿を瞑想する修行などを実施してはいけません。いくら頑張っても、運慶や康慶が造った仏像をありありと心に描くことすら、私たちにはできないですから。
(近来の行人観法をなす事なかれ。仏像を観ずとも運慶・康慶がつくりたる仏ほどだにも、観じあらわすべからず。)

と、この経典のメインの教えを全否定してしまう。むしろ法然上人が力点を置くのは、瞑想のプロセスを説き終わった後に、

極悪非道な人間でも、命を終えるときに良き導きを得て南無阿弥陀仏と唱えたら、すべての罪が除かれて極楽浄土に往生できる。

と説かれているところである。

なるほど、浄土宗は、さとりを開く才能や環境に恵まれない人のための教えであるから、経典のこのパッセージを重要視したいのはわかる。でも、全体の流れを汲まずに、関心ある所だけをピックアップするのはいかがなものか。高級レストランでコース料理を頼んで、メインディッシュにはまったく手をつけず、全力でデザートに集中するようなものだ。作ってくれたシェフに、そして、経典作者に対して、あまりに失礼ではないか。

浄土三部経の他の経典に関しても、ストレートな理解とはまるで違う解釈を取る。『無量寿経』は、阿弥陀如来が立てた48箇条の誓いが説かれるが、そのうち、衆生救済を約束した第18番目の誓いこそがすべてだという。阿弥陀如来を敬愛してやまないはずなのに、やはりかいつまんで自分の好みのパッセージのみを選んでしまう。まるで、都合のいい約束だけ覚えている駄々っ子のようではないか。

なぜ、かくも恣意的な解釈をするのか。

私がもし法然上人の存命中に出会えていたら、「師匠、間違ってないですか?」「なんでそんな歪んだ解釈をするんですか?」などと絶対に質問していただろう。

善導大師はジョブズのごとし

恥ずかしながら、私は最近になってようやく、法然上人の考えが腑に落ちた。いまとなっては、この逸脱こそが、浄土宗の神髄なのだと思う。

先の質問を実際に法然上人に伝えたとしたら、どんな反応が返ってきただろうか。思うに、「あなたの言ってることはまったく正しいです。私も最初、そのように理解していました。しかし、善導大師(613-681)の解釈に触れて、すべてが変わりました」と答えたのではないか。

善導大師は、詳細な伝記はわからないが、中国唐代初期に主に長安で活躍した僧侶で、浄土教に関するいくつもの著作を遺している。浄土宗の本堂や仏壇には、中央に阿弥陀如来、右に善導大師、左に法然上人をお祀りするのが基本的な様式になっているから、気が付かずに手を合わせている人も多いだろう。

浄土教の歴史における善導大師の存在の大きさは、再び電話機の話で言うなら、iPhoneを生んだスティーブ・ジョブズ(1955-2011)にたとえられるだろう。

黒電話が進化を重ねてスマートフォンになったように、浄土教においても、教義が継承され、体系化されてきた系譜がある。法然上人は『選択本願念仏集』第1章において、3通りの系譜を挙げている。今日の浄土宗ではそのうち、曇鸞法師(476-542)、道綽禅師(562-645)、善導大師、懐感法師(生没年不明)、少康法師(?-805)という系譜を、「浄土五祖」と讃えている。5人はいずれも中国の僧侶である。

とはいえ、法然上人はこの5人を等しい熱量で敬っていたわけではなく、同著の中で、「偏依善導(ひとえに善導に依る)」と自認するぐらい、善導大師こそを師と仰いだ。同著第16章では、

善導大師は、夢の中で阿弥陀如来から『観無量寿経』の深奥を直接学んで、注釈書『観無量寿経疏』としてまとめた。だから、この書物は、阿弥陀如来が著したものに等しい。

とまで言い、善導大師は阿弥陀如来の化身だと尊敬してやまない。異常なまでの入れ込みようだし、浄土五祖の他の4人が軽んじられていて可哀そうにもなる。でも、私も思うのだが、善導大師の理解力は、他の高僧たちと比べても、次元が違う。なにが違うかというと、善導大師は、仏典からとても読み取れない景色を見せてくれるのである。

この感動の質というのが、ちょうどジョブズがiPhoneで世間に鮮烈なインパクトを与えたときに近しい。

電話機は、エンジニアが技術開発に日夜取り組んだおかげで、高機能になり、持ち運びも可能になった。しかし、高機能なデバイスはいかにもメカっぽくなるのが常で、したがって、iPhoneが世に出るまで私たちは電話機が美しくありうることを知らなかった。ジョブズは、iPhoneを作るとき、最新の機能をそこに盛り込むだけではなく、あたかもアート作品であるかのようにパッケージまで含めて美しくした。iPhoneは美しいがゆえに暮らしのなかに自然と溶け込み、日常を美しくした。これは、エンジニアが技術開発にいくら明け暮れたところで、到達できない地平だったと思う。

善導大師も、これぐらい浄土教を異次元の教えに深め、日常に溶け込ませる礎を作った。

もう少し詳しく解説しよう。

『選択本願念仏集』が、道綽禅師の著作の引用から始まることは、すでに書いた。道綽禅師は、「自分のキャパを超えた修行をやせ我慢に耐えてやり続けるのは無駄じゃないか」と冷静に見極め、インドではメインストリームにならなかった阿弥陀如来への信仰こそが、身の丈に合っていると看破した。道綽禅師の理解はなるほど鋭いが、驚くべきものではない。なぜなら、仏典を読み漁っていくと、「阿弥陀如来への信仰」というのが、坐禅などと並んで、さとりへと向かうためのカードの1枚として存在することは、十分に理解できるからである。道綽禅師は、従来はマイナーだった「阿弥陀如来への信仰」というカードを、時代状況などを考慮して切り札として使い、仏教を革新した。だから、「このタイミングでこのカードを切ってきたか。うーん、お見事!」とうならされるが、それ以上ではない。道綽禅師が敬愛した曇鸞法師も、やはり同じである。

だが、善導大師の解釈は、「え、こんなカード、初めて見た…」と不意を突かれたようなインパクトがある。

たとえば、『観無量寿経』に説かれる仏像についての瞑想「像想観」のところである。経典には、「仏さまはこの世界中に満ち満ちている(法界身)から、あらゆる人々の心の中にも入り込んでいる。だから、私たちがブッダを想うときには、この心がそのままブッダとなるのである」と説かれている。そう、私たちの心はしょっちゅう曇りがちだが、本来は誰しもブッダのような美しい心を持っている。いわゆる仏性である。その美しい心を思い出したときには、すでに私たちの心はブッダになっている。経典の教えはなんとも素晴らしい!

――と理解したくなる。というか、普通に読んだらそうとしか理解しようがない。でも、善導大師は、その理解の仕方は絶対ダメだと戒める。なぜかというと、私たち凡人には天才の考えなんて知りようがないからである。ジョブズのことを思ったら、ジョブズになれるかというと、そんなわけはない。ジョブズだけでなく天才と称賛される人たちを私たちが尊崇するのは、その脳内を理解できるからではなくて、私たちが到底理解できないレベルで創意を重ねてきたからである。私たちが、自分のことをお釈迦さまのように生きられない凡人であると受け止めるなら、さとりを開いた心持になるのはもってのほかなのである。だから、善導大師は、『観無量寿経』を注釈した『観無量寿経疏』のなかで、

私たちがブッダを想うとき、ブッダは私たちの心を知って、私たちの心のなかに現れてくれるのです。自分の心によってブッダを生み出していると誤解してはいけません。

と言う。

確かにそうなのだ。

ブッダは私たちの願いをいつも気にかけてくれている。私たちがブッダの心を思い描く必要などないのである。ちょうどジョブズが、「こんなデバイスがあったらいいな」というみんなの願いをひとりでに理解して、iPhoneとして商品化したのも、同じようなことだろうか。

まあ、『観無量寿経』は、言葉通りに読めば、こんな風には理解できない。でも、どうしようもない凡人として経典の真意を汲んでいくと、善導大師の解釈のほうがもっともだし、そう読まない限り、浄土教は命を持ちえないのである。

『観無量寿経疏』において善導大師は、「過去から今に至るまでの一切の解釈をあらためる(古今楷定)」と書いている。経典に記された言葉にまったくとらわれずに、過去のあらゆる解釈を否定し、経典作者の意図すら超えて、浄土教が命をもって信仰されていくための理論的基礎を作った。

行間の裏の裏の裏まで読むような、こんな離れ業、人間にできるはずもない。法然上人が、「善導大師は阿弥陀如来の生まれ変わりとしか考えられん」とまで惚れ込んだのも、頷けるのである。