法然上人の幸福論①「お念仏から幸せがはじまる?」
商品ひとつで850年
「浄土宗が850年間ずっと、同じ商品だけを売り続けてるの、スゴいですね」
と、広告代理店の人から褒められたことがある。
さすが、うまいこと言う。
浄土宗の教えを一言でいうと、「生涯念仏ひとすじ(=専修念仏)」である。仮にお寺が商店だとすれば、「念仏専門店」と書いた看板を店先にどーんと掲げ、「念仏」のみを商品として取り扱っている。そんなイメージで間違いない。きわめてストイックな商いだ。ラーメン店に例えるなら、ギョーザもチャーハンも取り扱わない、文字通りの「ラーメン専門店」みたいな感じだろう。
「店長、たまにはギョーザも焼いてや」と馴染みのお客さんに頼まれても、「アカン。ワシはラーメンひとすじや。旨いラーメンを食べてほしいねん。ギョーザはよそで食べてくれ」とそっけなく返す。同じように、浄土宗のお寺だと、「住職、たまには坐禅もしたいです…」とねだられても、「アカン。うちは念仏ひとすじや。坐禅はよそで組んでくれ」とつれなく断る。
ただし、私にかぎって言えば、「坐禅組んでみたいです…」と求められれば、「ええで」とわりと快く応じる。「ラーメン専門店」と書きながら、ギョーザもチャーハンもメニューに載せる店があるような感じだろうか。客からすれば、ラーメンが美味しい店なら、ギョーザもチャーハンも味を期待したくなるのが、素直な心理だろう。そのような心理を私は受け止めたいと思うから、ときには坐禅も一緒に組む。
そんなわけで、「念仏ひとすじ」へのこだわり具合は、同じ浄土宗のお坊さんでもいくらか温度差はある。いずれにしても、浄土宗を開いた法然上人も、その跡を継いだ弟子たちも、他の商品を店頭に並べるなど考えず、「念仏専門店」の看板を守り抜いてきた。
そして、今年は「念仏専門店」の開業850年に当たるのである。
平安末期の承安5年(1175)に京都・東山の地(現在の知恩院のあたり)で、法然上人が始めた浄土宗は、いまや全国に七千のお寺が所属する大教団である。たったひとつだけの商品で、津々浦々にチェーン展開を成功させたことになる。これは間違いなくスゴいことである。
念仏で幸せになれる?
でも、褒められていい気になってばかりはいられない。
浄土宗では、「お念仏からはじまる幸せ」を850周年のスローガンに掲げている。
JR京都駅の新幹線のホームに掲げられた看板には、法然上人の後ろ姿の墨絵イラストと、その横に「お念仏からはじまる幸せ」のスローガン。50年に1度のアニバーサリー。キャンペーンにも力が入っている。宗派から届くパンフレットやポスターにもやはり、「お念仏からはじまる幸せ」と書かれている。
これだけ浄土宗の広報部が張り切っているのだから、お寺のなかにいる私たちは、この言葉をしっかりと胸に刻み、精一杯盛り上げないといけない。昨年、阪神タイガースが18年ぶりにリーグ優勝、38年ぶりに日本一に輝いたときは、関西全体がお祭りムードに包まれた。浄土宗のアニバーサリーも50年ぶりなら上回る勢いで盛り上がってもおかしくない。
それなのに!
このフレーズを家庭内でも広めようと「お念仏から幸せが始まるんや」と子供2人(中学2年生と小学6年生)に話したら、私がボケたと思ったのだろうか、あろうことか「そんなことあるわけないやろ!」と鋭いツッコミを入れてきた。
マジか(失笑)。
なんという不謹慎!
「どの口でそんなことを…!」と私は住職として叱るべきである。だが、子供たちの目を見ても、悪意は感じられなかった。おそらくは、率直な感覚から口に出た言葉なのだろう。
そういえば、私だって小学生から中学生ぐらいのころは、ファミコンゲームのドラゴンクエストに没頭しすぎて、本堂で読経する僧侶よりも、ゲーム内で回復の呪文(ホイミ)や復活の呪文(ザオリク)を唱えてくれる僧侶に憧れていた。ましてや現代のライフスタイルだと、スマホやタブレットを手にすれば、いつでもアニメやゲームの魅力あふれる世界が無限に広がっている。「鬼滅の刃」が大流行したときは、悲鳴嶼行冥のセリフに出てくる「ナムアミダブツ」を唱えてくれる人として、お坊さんが光を浴びた。私たちがナムアミダブツを口にすると、「おお!」と感動されたが、おそらく鬼滅ファンの脳内には、アニメのワンシーンが幸せに再生されていたことだろう。
浄土宗が大事にしてきた「念仏」とはなにか。そして、なぜ「幸せ」になれるのか。残念ながら、きわめて実感しにくい時代になっている。850周年の節目を迎えるなら、私なりの言葉で語っていきたいと思っている。
プロフェッショナルなアマチュアであれ
仏教を学問的にマスターするのは、司法試験に合格するより難しい。そう断言したくなるぐらい、勉強量が多い。
教科書となるのは、まずはお釈迦さまの言葉を収めた経典。お坊さんの行動規範を書いたルールブック(律)。そして、経典を解説した解説書(論)。これらをまとめて経・律・論の「三蔵」という。
龍岸寺の本堂に、約2メートル四方の大きな本棚があり、『国訳一切経』全257巻がぎっしり並んでいる。これも「三蔵」の一種であるが、あくまで、利用しやすいようにメジャーなもののみを抜粋したコンパクト版である。
せっかく本堂に置いてあるので、私は住職になって以来、このシリーズを日々読んでいる。書かれている言葉は現代語ではなく、漢文の書き下し文であるが、継続は力なりで、だいぶすらすら読めるようになった。でも、一時間ぐらい読むと、脳が疲弊してくる。これまでに読んだ分量は、まだ60~70冊だと思う。読み終わって仏教をマスターするより、寿命が尽きるほうが先かもしれない。
でも、法然上人は、あらゆる仏典を読むこと5回に及んだという。く、悔しいではないか。いくらか誇張されているだろうが、そのような伝説が生まれるほど博学だったことは間違いない。私もせめて1回通読すれば、なにか見晴らしのいい景色が見えるのではないかと願って、これからも読んでいく。
さて、ざっくりとだけ、法然上人の生涯を記しておく。
法然上人は、長承2年(1133)、美作国(現在の岡山県)の豪族の家に生まれた。9歳のときに夜討ちに遭い、父・漆間時国は命を失う。死の床にあった父は、「恨みに恨みをもってしても平和は訪れない」と遺言し、出家することを勧めた。法然上人は遺言を守り、母とも離れて仏門に入ったという。法然上人の人生序盤の哀切極まる名場面である。
ちなみに、このエピソードにかぎらずであるが、伝記『法然上人行状絵図』は没後百年ほど経ってから成立しているので、多少の脚色を含む。しかし、これも宗教文学の味わいであろう。私は幼い頃に法然上人の生涯を学んだとき、「敵を恨むなかれ」という遺言は心に響くものがあったし、私の長男もこのくだりが好きで教訓としているみたいなので、真偽のほどはそっとしておきたい。
京都に移り比叡山延暦寺に登ったのは15歳の時。比叡山のなかでも奥深いところにある黒谷にひっそりとこもり、43歳までの28年間、ひたすら学問に打ち込んだ。頭脳は相当キレたらしく、「智慧第一」と呼ばれたという。
しかし、知識はときに私たちを惑わす。知識が増えればかえってそれに振り回されることを、SNSで情報が氾濫するなかに生きている私たちはよく知っている。法然上人は、膨大な知識を得ても、迷わなかった。おそらくは仏典を読むほどに、念仏の味わいに強く心魅かれ、ファンになった。そして、自身のファン心情が仏教の本質から外れていないか、仏典に答えを求め続けた。ついに、「念仏こそ幸せへの道だ!」と確信を抱き、比叡山を降りて、京都の町で「一緒に念仏しようぜ!」と伝え始めた。
その後、80歳で往生を遂げるまで、讃岐国(香川県)に配流された期間も含め、常に「一緒に念仏しようぜ!」と語り続けた。仏教のすべてを網羅的に知るプロフェッショナルでありながら、最後まで「最大の念仏のファン」というアマチュア心情を忘れなかったことに、心底スゴいと驚嘆するのである。