掲示板法話「無我になれたら幸せ?」
私が大学生だった頃の話です。友達が不意に、
「お前、お寺の跡継ぎなんやろ。将来はお坊さんになるんか」
「仏教って欲望を全部なくすんやろ。俺まだまだ楽しく生きたいから、修行とかないわー」
と軽く馬鹿にしてきました。私は、仏教が大切にしている世界を踏みにじられたようで、イラっとしました。言い返して一矢報いたい気持ちもありましたが、なにも言えませんでした。当時の私には、その大切な世界のことが、よくわかっていなかったからです。
お寺に縁のない人でも聞いたことがあるでしょうが、仏教では、修行をして欲望をなくし、「無」の境地に至ることを目指します。「自我」を離れて「無我」になるとも言います。この「無」とか「無我」とかいう表現は、響きはカッコいいのですが、その境地がいかなるものなのか、雲をつかむようで得体がしれません。仏典を読んでみても昔のインド人は、
「凡人の私たちには、お釈迦さまの達した境地など理解しようがない」
「無我の境地は言葉を超えているから、言葉で理解しようとするのが誤りである」
などと煙に巻いてくるのが常套手段です。お釈迦さまへの敬意ゆえの表現だとはわかるのですが、現代人の私たちは、やっぱりアタマで納得したいと思うものです。
さて、無我の境地は幸せなのでしょうか。
これを理解するには、お釈迦さまのように無我に達したら、そこにどんな暮らしが待っているのかを考えてみるのが、近道だと思います。
私達はついつい、自分目線で世界を眺めています。これから寒い時期になりますが、エアコンの温度やお風呂の温度が自分の好みに調整されていないだけで、「なんでこんなアツいねん!」などとイラっとすることはありませんか。これが「自我」にとらわれた生き方です。
このような自分目線を捨てられたらどう変わるでしょうか。
この世界にはたくさんの人がいて、その人の数だけ“ちょうどいい温度”があると気づいたら、室温設定が高くても、「私が薄着すればいいや」「ちょっと我慢しよう」と、心に余裕ができます。価値観の違いを超えて仲良く生きられます。これが「無我」への入口です。
では、世界中の人々が無我の境地に達したら、どうでしょうか。この地球に暮らすあらゆる人々が仲良く暮らす道を探すでしょう。日々の喧嘩はもちろん、国と国との戦争も起こらないはずです。地球環境にも配慮し、人間だけではなく、あらゆる動植物や、微生物にいたるまでもが、永く共生できるようにつとめるでしょう。 もちろん、私たちが生きていくのは、綺麗ごとではすみません。命を維持するには、どうしても動植物の命をいただくことになります。したがって、あらゆる命の完全な共生というのは理想の物語にすぎないのかもしれませんが、それでも、私たちみんなが無我を求めてお互いに気遣いあえたら、この地球はずいぶん暮らしやすくなると思うのです。
だから、「無我になれたら幸せ?」と聞かれたら、お釈迦さまはこう答えたでしょう。
「無我になれたとき、あらゆる命と争うことなく、幸せに暮らしていけるのです」