お寺の日々

掲示板法話「願い事って届く?」

掲示板法話「願い事って届く?」

お正月になると、初詣に多くの方々がお参りに来られます。

本堂やお墓で手を合わせ、それぞれの心の中で、今年への願いを込めているはずです。

この世に命をいただいていることに感謝して手を合わせるのが本来の拝み方の作法でしょうが、「商売が繁盛しますように」「健康で生きられますように」「いい就職ができますように」と、つい現世利益を願うのが、私たちの性だろうと思います。私自身、もっとも真剣に読経したのは、もう数年前ですが、父親ががんを患って手術を迎える時でした。本堂での朝勤行では、手術の数日前から「どうか成功しますように」と渾身の願いを込めていました。

幸いに手術はうまくいき、いまも父はそれなりに元気に暮らしています。しかし、いくら願ったところで、手術がうまくいかないこともあるのは、私は数多くの人のお葬式に立ち合い、身に染みて知っています。日頃の行いがよければ人生が順風満帆にいくとか、敬虔な信仰を抱いていれば長生きできるとか、この世はそんな風に都合よくできていないのです。

では、神さまや仏さまに手を合わせれば願いが叶うのは、「気のせい」なのでしょうか。

これから受験シーズンですが、やはり合格は自分が努力して勝ち取るものであって、にわかに神さま仏さまにすがるなど身勝手な話だ――嘲笑う声もときに聞きます。

神頼み仏頼みがまったく無駄だともいえないと思います。努力を重ねて勉学に励み、ベストコンディションで受験当日を迎えても、不安になるのが人間です。そんなときに、「神さま仏さまが守ってくれている」と思えると、平常心を取り戻し、限界まで知恵を振り絞ろうとするはずです。それはささやかなチャレンジかもしれません。でも、人生のなかでこのようなチャレンジをなんども繰り返せたら、やがて大きな成功につながります。

もちろん、せいいっぱい頑張っても、望ましくない結果が待ち受けているかもしれません。就職や結婚などの節目で、ベストの判断をしたつもりでも、「こんなはずじゃ……」という思わぬ未来がやってくることはよくあります。失意のどん底に陥ったとき、私たちは自分を恥ずかしく思い、自分を責めて苦しんでしまいます。でも、神さま仏さまがそう導いてくださったのだと思えたらどうでしょう。気持ちを切り替えるきっかけをもらえませんか。

したがって、「気のせい」にすぎないとしても、神さま仏さまに手を合わせる意味はあるといえます。しかし、私としてはもう少し前向きに拝む意義を信じています。

知り合いのお坊さんが、「仏教を信じていると縁のめぐりがよくなる気がする」と語ってくれたことがあります。うまい表現だなぁと思いました。私自身の感覚としても、出会うべきときに出会うべき人と出会わせてもらっている気がします。神さま仏さまのはからいは、なにかしら働いているような気がします。そう言うと、やはり「気のせい」だと言ってくる人はあるでしょう。でも、気のせいだとしても、目の前のご縁をおかげさまだと受け止めて、日々の生活に励んでいくことは、やはり価値のあることだろうと思います。

だから、「願い事って叶う?」と聞かれたら、お釈迦さまはこう答えたでしょう。

「あなたをいつも大切に思っていますから、怠ることなく努め励みなさい」と。