お寺の日々

いくつかのご報告

いくつかのご報告

4月末日、17年1か月奉職した知恩院を退職しました。

お世話になった皆様、ありがとうございました。

もともと、2011年の法然上人八百年大遠忌がひと段落したら、龍岸寺の法務に専念しようと考えていて、2012年に退職願をいちど提出しています。

しかし、退職願を出した翌日だったと思いますが、私より55歳年上の北川一有 知恩院執事長(当時87歳)がものすごい剣幕でやってきて、至近距離で「辞めてもらっちゃ困る」と。「お寺は近いんだから、週に2日間来て5日分働いたらいい。君ならできるだろう」と。内心では「むっちゃブラックやん」と思いましたが(笑)、私のことを評価してくださっている熱量に打たれて押し切られ、時間の許す限り奉職してまいりました。北川執事長は浅草の長壽院のご住職でもあり、老齢を押して東京から京都へと往復されていましたから、かたや原チャ20分で到着できる知恩院への奉職を、私には断りようがありませんでした。

北川執事長を「寝技のプロ」だと評した人がいましたが、「ここぞ」という交渉をするときの瞬発力やら切れ味やらは実に見事で、そのことを私自身が身をもって知らされた出来事でした。

北川一有師(当時87歳)。「法然上人をたたえる夕べ」にて来賓各氏を見送る

執事長の職を辞されたのが2019年1月。私はもうこの時点でお役御免かなぁと思いつつ、知恩院が誇る国宝御影堂の修復事業の落慶を2020年に控えてましたので、とりあえずそこまではと思っていたら、今度はコロナ禍に見舞われ、私の動画配信のスキルが買われることに。

コロナ対応も落ち着いた昨年11月に、浄土系アイドルのプロデュースをはじめ、龍岸寺の文化事業を一手に担ってくれていたスタッフの橋本から退職したいという希望をにわかに聞きました。

2016年、芸術系大学1回生だった頃から、「自宅にいるよりお寺にいる時間が長かった」というぐらい彼女は龍岸寺にいて、このお寺の文化的魅力を高めるために力を尽くしてくれました。お寺をいかにポップなもの(つまり現代に刺さるもの)にしていくか、というのが彼女と私のあいだで共有されていたテーマだったと思います。

4年間にわたった浄土系アイドルのプロデュースだけでなく、YouTubeチャンネル「龍岸寺ナムナムTV」や仏具系ポップユニット「佛佛部」の運営を含め、知恩院の奉職やシングルファザーの育児で時間がとれない私の右腕となって、常に支えてくれたのが彼女でした。

龍岸寺ナムナムTV開設初期のロケ。住職の息子えんちゃん(右)とカメラを構えて指示を出す橋本(左)

退職の意向を聞いたとき、私には体の一部がそがれるような喪失感がありました。しかし、お世話になった才能ある相方だからこそ、彼女の人生を尊重すべきだと思いましたし、同時にまた、彼女がこれまで手掛けてくれた数々の事業をなんとか継いでいきたいとも思いました。

知恩院への奉職も潮時――。

すぐさま翌日に知恩院に退職の意向を伝えました。この瞬発力は、他でもなく北川前執事長から教わったものだと思います。

彼女が携わってくれていた文化事業の数々を私がどれだけ引き継いでいけるのか。不安があることは確かですが、やれるかぎりやってみようといまは思っています。一方で、ようやくお寺の活動に専念できることに喜びを感じているのも確かです。

そんなもろもろの報告のために北川前執事長を訪ねていこうと思い、「知恩院退職のあいさつにうかがいたい」と申し入れたものの「いまは人と会いたくない気分だ」(北川前執事長を知る人にはわかる表現だと思います)と意地を張られ、96歳になっても相変わらず元気だなぁと思っていました。そうしたら今年3月にふとご逝去の訃報が。断られても行っておけばよかったなぁという後悔も少し抱きつつ、「会いたくない」というあの頑固なじいさんらしい言葉を最後にいただけてよかったなぁと受け止めています。

奇しくも、私が知恩院を退職する4月末に合わせたかのように、北川前執事長の本葬が4月28日に東京・増上寺で営まれました。偶然といえば偶然ですが、必然かなぁという思いがはるかに強いです。

浄土への門出は晴れやかに。東京・増上寺にて

北川一有 前知恩院執事長、ありがとうございました。

龍岸寺スタッフの橋本さん、ありがとうございました。

これからは私があとを継いでいきます。