グッドモーニング!お釈迦さま!
仏教へのトラウマを打ち破れ
今月から新しい企画を立ち上げることにした。ネーミングには悩んだが、日曜日の朝に、お釈迦さまと向き合おうということで「釈迦モーニング」略して「釈迦モニ」とした(次点は「仏陀モーニング」だったが「釈迦モニ」に字面の可愛さで負けた)。
イベント情報:2017年10月29日 釈迦モーニング Vol.1 〜坐禅〜
ネーミングはゆるやかであるが、私としては念願の一歩である。仏教を学ぶ時間を毎月持ちたいというのは、2年前ぐらいから言っていた。自分自身の学びのため、ということに加え、仏教を学べる場がほとんど開かれていないということが、私のなかで問題意識としてあったからである。京都は仏教都市であるから、佛教大学、龍谷大学、大谷大学はじめ仏教系の学校もたくさんあるが、これら学校は一般人が立ち入れる場ではない。各宗派の本山や大寺院も、日々法話を提供してくれている。しかし、法話はすでに信者となっている人には聞きやすいが、ふらっと立ち寄った人にはいくらか抵抗感があることは否めない。仏教都市であるにもかかわらず、どれだけ仏教が人々の心に届いているのか。いささか疑問があった。また、京都の一寺院の住職として、忸怩たるものがあった。
とはいえ、仏教の本筋のところを扱う企画を始めるとなると、とてつもない恐怖感に襲われるのである。以前、辻村優英さんと「経典をナナメから読む会」をやっていたときも同じ感覚があった。僧侶である私にとってみれば、フリーペーパーの発行のような、仏教周辺の分野を取り扱っているときは、なにか失敗があったところで、自分自身のアイデンティティまで失われることはない。だが、仏教の教義について間違ったことを言ったら、僧侶としての沽券にかかわる(過去を振り返れば、間違った発言も多々あるので、その点はもう反省するしかないのだけれど)。なかなか決心を固められないまま、開創四百年事業や晋山式などの忙しさを理由に、しばらく放置していた。
2015年に始まった十夜フェスは、近々第3回目を迎える。十夜フェスを実施するようになって以来、大学生がお寺に来ることが増えた。浄土系アイドル”てら*ぱるむす”が龍岸寺に”顕現”して活動し始めて以来はなおさらである。学生たちは、「せっかくお寺に来たのに何も知らないわけにはいかない」ということで、「念仏を教えてほしい」「坐禅をくみたい」「法話してほしい」など、さまざまな要望を寄せてくる。教義的には「浄土宗ではもっぱら念仏をとなえるので坐禅は禅宗系のお寺に行ってください」ということになるが、「坐禅をくみたい」という率直な気持ちに応えたいと思った。また、その気持ちに応えられるだろうという感覚もあった。念仏や坐禅や法話の時間を、求められるままに提供してきた。提供すれば、やはり反応はよくて、質問もいっぱい出てくるし、坐禅や念仏のあとは気持ちもすっきりしたと言ってくれる。
お寺と縁のない生活をしてきた人は、どうしても仏教やお寺に対して心を閉ざしている。いまどき、仏教やお寺と関わらなくても、生活していくうえで困ることはない。逆に深くかかわると、戒名料やら何やらで高額のお布施を要求されたという風評(そこにはいくらか事実も含まれるだろうが)を耳にしたりもする。新聞やテレビには、聖職者であるはずのお坊さんが犯罪を犯したときには、期待を裏切られた分だけ、大きく取り上げられる。「無宗教」をうたっている人たちの多くは、仏教、お寺、僧侶などに対して「無関心」であるというよりも、「トラウマ」を抱えているというほうが正確である。だから、私たちが仏教の魅力を伝えても、なかなか汲み取ってもらえない。
だが、十夜フェスにせよアイドル活動にせよ、お寺に本格的にかかわり始めると、心の扉が開かれる。そうすると、印象は180度変わる。
お寺の本堂そのものがアート空間だし、一つ一つの仏具にも歴史の重みがある。修行のメソッドも、きちんと実践してみれば、身心を整えるのに役に立つ。二千五百年の伝統を持つ仏教は、非常に魅力的なものに見えてくる。もっと仏教を知りたいと思うし、自然と手を合わせたくなる。
そういう光景をいくつも見てきてようやく、広く一般の人々を招いて、仏教を体感する場を設けることに決心がついた。
坐禅と念仏は通じ合う
「釈迦モニ」は、実践(行)と勉強(学)の両面から、仏教に向き合うというプログラムにするつもりである。第一回目の実践は、坐禅である。念仏にしてもよかったが、それだとありきたりだし、私自身が新しいことにチャレンジしたいという想いもあって、坐禅にした。
禅宗系の僧侶に比べれば、私の坐禅経験などたかがしれている。回数を正確に数えたわけではないが、せいぜい百回に満たない程度であろう。したがって、坐禅についての造詣や、指導するテクニックに関しては、一流の禅僧にまるでかなわない。しかし、念仏も坐禅も、釈迦の達した境地にむかっているわけだから、念仏の経験を踏まえたうえで、わずか百回の坐禅でもそれなりのものになっているという程度の自負はある。「釈迦モニ」の参加者と一緒に坐禅を組んでも、そんなに間違ったことにはならないだろう。
では、坐禅と念仏はどう同じなのか。藤田一照さんの『現代坐禅講義』を読んでいると、面白い表現に出会った。藤田さんは、
道元禅師はそれ(=われわれが夜ぐっすり眠っている時にも息をさせ心臓を動かさせているような生命的自己)を「おんいのち」と呼びました(「おん」は敬意を示す接頭語)。(中略)おんいのちが最も生き生きと働きだすのは、われわれが余計なことを全てやめてとことんくつろいだときです。それが「南無する」ということです。(p.34-p.35)
と言っている。勘の良い人なら気づくだろうが、念仏つまり「南無阿弥陀仏」も、その言葉の意味は同じである。阿弥陀とは、「アミターユス(無限の命)」あるいは「アミターバ(無限の光)」というサンスクリット語に由来する。したがって「南無阿弥陀仏」と唱える浄土系の信仰もまた、私たちの命を成り立たせている根源的な命に帰依するという意味になる。道元禅師の説いた坐禅は、念仏と通じ合うのである。
私自身の率直な感覚としても、坐禅をやり始めたころは、念仏と似通っているとは到底思えなかったが、ある程度慣れてきたいまとなっては、確かに坐禅と念仏は根本的なところで通じ合っていると感じる。もちろん、坐禅と念仏において、感じるものがまったく同じだというつもりもない。ひとくくりにして語るなら、かえって魅力を失う。坐禅と念仏には、その教義や作法などの面において、それぞれに豊かな伝統がある。そのことは大切にするべきだけれど、「うちは浄土宗だから念仏しかやりません」と毛嫌いする必要はないと思う。
念仏はボイストレーニングに効果ある説
とはいえ、念仏の坐禅の最大公約数が「いのち」であるといったところで、それが具体的な実践とどう結びつくのか、ほとんどの人はぴんとこないだろう。この点については、私は、藤田さんが先の引用の中で「くつろぐ」と言っていることが極めて的確な表現だと考えている。
少し話がそれるけれど、法事などの読経が終わった後、檀家さんから「やっぱりいい声してますね」とよく言ってもらえる。若い世代の方からは、「ボイストレーニングしてるんですか」と言われることもあるが、ボイストレーニングに通っているお坊さんなど聞いたことない。もちろん、私もそうである。繰り返しの読経の鍛錬によって今がある。だから質問してくれた檀家さんには、「毎朝、広い本堂でお経をあげていると、自然と声が出るようになるんです」と答える。
だが、大きな声を出し続ければ、自然と声が出るようになるのか。発声の仕方が悪いと、かえって喉をいためて声を枯らしてしまうだけではないのか。私のこれまでの経験からしても、夏のお盆の時期など、読経時間があまりに長いと、だんだん喉に負担が蓄積し、声を枯らしてしまうことがあった。だから、「できるだけお腹から声を出しなさい」と先達からは教わった。
お腹から声を出すにはどうすればいいか。私はネット上でボイストレーニングの情報を漁ったぐらいの知識しかないから、検討違いのことを書いているかもしれないが、お腹から声を出すときに大切なのは、腹筋を鍛えることよりもまず、声帯をリラックスさせることである。喉で声を出そうとするのではなく、息を深くしてお腹から声を出そうとすれば、自然と必要な筋肉が刺激される。
では、声帯をリラックスさせるにはどうしたらいいか。これが案外難しい。私たちは知らず知らず無理をしながら生きているから、声帯に限らず、体をリラックスせよといわれても簡単にできるものではない。結局、お寺の本堂のようなリラックスできる場で、ゆったりと空間に身を任せていくのが一番良いのではないかと思う。心がゆったりしたら、その感覚を身体に伝えていく。声帯をほぐし、肩の力も抜いて、深い息をしていく。そういう風にして、読経なり念仏なりをしていくと、声が整ってくる。
藤田さんが坐禅において大切なのは「くつろぐ」ことだと言っているのも同じである。お寺の本堂というと、居ずまいを正して凛としているべき空間だと思われていたり、坐禅というと、背筋をぴんと伸ばしてじっと静止し続けることだと思われているけれど、そんな風にお寺で時間を過ごしても身心に負担をかけるだけである。坐禅をやって逆に腰を痛めたり、肩が凝ったりしたという話はよく聞くが、それは坐禅のやり方が間違っているのである。
私自身、いまでも読経しすぎて喉を多少いためることがあるが、そういうときは読経中に心のバランスをチェックする。そして、声帯の具合を整えていく。「念仏=ボイストレーニング」などと言ってしまうと、ちょっと語弊あるけれども、結果的にそうなっているのは否定しない。
「念仏」=「坐禅」=「いのちに感謝する」というのは抽象的な話ではなく、大きないのちの一部である自分自身の身体を、しっかりといたわってあげることと直結している。身体が硬いままで運動したらけがをする。声帯をリラックスさせずに歌えば喉をいためる。全身をしっかりとリラックスさせて、正しく座り、正しく手足を動かし、正しく声を出す。それはけがをしない工夫ということを越えて、一つの仏教的生き方なのである。
釈迦モニにてお待ちしています!
そんなわけで、釈迦モニでは、このお寺が浄土宗だから念仏しかやりませんとか、そういう偏狭な考えにとらわれるつもりはない。お寺に無関心な人が抱えている、仏教へのトラウマをまず打ち破る。そして、お釈迦さま以来、仏教が大切にしてきた根幹のところをしっかりととらえて、それを現代に生かしていく。そのために、ときには坐禅、ときには念仏。いろんな方法を試す。そういう時間にしたい。
日曜日の早朝。お寺で時間を過ごせば、日頃どうしても忘れてしまっている、心の芯から「くつろぐ」という感覚を味わえると思う。
皆さまお待ちしています。