公開講座「現代社会と向き合う仏教」によせて
宗教活動と社会活動
数か月前のある日、「まだまだ認知が低いと思われる仏教徒の社会活動についての認識が世間で深まり、仏教の可能性を一人でも多くの方々に知っていただきたい」という熱のこもったメールが届いた。仏教大学の大谷栄一教授からだった。
大谷氏は、私のほかにも、社会活動に精を出す関西圏の浄土宗僧侶4名に声をかけられ、去る10月5日、佛教大学四条センターで、公開講座「現代社会と向き合う仏教」がスタートした。全6回で、来年3月まで続く。私は12月7日に登壇する予定である。
確かに、2009年に私はフリーペーパーを創刊して、お寺から街に出たから、広い意味では「社会活動」をやっていると言えなくもない。しかし、フリーペーパーの発行にせよ、念仏体験を中心としたアートフェス「十夜フェス」の展開にせよ、衆生(ファン)とともに修行する浄土系アイドル”てら*ぱるむす”のプロデュースにせよ、私が直接的あるいは間接的に手掛けてきた活動は、いずれもよくあるような社会活動とは異なる。
たとえば、来月2日に登壇される松島靖朗さんは、全国各地のお寺にお供えされるお菓子などを、再分配して母子家庭におすそわけする「おてらおやつクラブ」を展開されていて、去る8月24日にはNPO法人化を果たした。また、滋賀県の浄土宗青年僧侶が携わる「おうみ米一升運動」(2010年発足)は、東日本大震災以降、毎年、檀家さんから寄進された何トンもの米をトラックに積んで東北地方沿岸部を訪ねている。今年はちょうど今週、東北入りしている。まさに社会活動である。
これに比べれば、私のほうは社会活動よりも宗教活動の色彩が強い。しかもそこにエンタメやアートの要素が加わっているから、ボランティア活動に精を出す僧侶からは軽薄の極みだと映ることもあるらしく、私の知らないところで失笑されていたりすると聞く。もちろん、私も関わっているスタッフも真剣にやっているつもりではあるが、多くの人に仏教を伝えようとした結果、ついついエンタメやアートに寄ってしまう。間違っているとも思わないのでたぶんこのまま続けていくだろう。
だが、宗教活動と社会活動は、本当に切り離せるのだろうか。なぜ、お坊さんが社会活動をすることを求められるのだろうか。
大阪・ミナミの街の一角にある真言宗弘昌寺の鳥居弘昌住職から、「護摩を焚けば街が良くなる」という言葉を数年前に聞いたとき、私のなかで腑に落ちるものがあった。
車で街中を走っているとき、パトカーが近くを通ると、シートベルトを着けているか、制限速度をオーバーしていないか、その他道路交通法に違反していないか、つい入念にチェックする。これと同じように、お坊さんが護摩を焚いている姿を見たり、本堂から木魚の音が響いてきたり、あるいは時刻を告げる鐘の音が響いてきたりすると、人間はどうしても自分の心を省みる。そういう瞬間がなければ、人間はつい乱れてしまうし、街も荒れていく。
鳥居さんは通りがかりの人に見える場所で、毎日護摩を焚いている。私もこれに倣って、朝のお勤めで木魚を打つ。私はお寺の仕事を手伝ってくれている学生に対しても、「お寺に来たらまず本堂で木魚をたたいて念仏しなさい」と指示している。「木魚が地域に響いた分だけ、地域が活性化していくのです」と。
誤解のないように書いておくが、もちろん鳥居さんも私も、護摩を焚いたり念仏を打って念仏を唱えたりするとき、第一には仏への祈りがあるのであって、パフォーマンスは二の次である。一方で、祈りをわかりやすく見える化してはじめて伝わることもある。そういう意味において「護摩を焚けば街が良くなる」と鳥居さんは言ったのだと理解している。
現状では、宗教活動と社会活動のあいだには見えない壁がある。
街づくりをする団体はNPO法人として認められるけれども、NPO法人は宗教活動を目的としないことになっている。先にふれた「おてらおやつクラブ」に直接確認したわけではないが、仏教系の慈善事業団体がNPO法人化を果たす場合には、貧困問題や街づくりなどの社会問題の解決を目的とうたって申請していると聞く。また、震災などの折には地域の人々がお寺に避難してこられることがよくあるが、行政からの支援物資はまず指定避難所に優先して届けられるから、お寺に避難してきた人の支援は後回しになる。
お寺があって街があるという関係性を素直に認められたらと願うが、そこに至るにはまだまだハードルが高い。そうであるがゆえに、今回の公開講座などを通じて、宗教と社会活動が切り離せないものであることを伝えていく意義があるのかもしれない。
「仏教の近代化」そして「仏教の現代化」
ところで、大谷栄一氏といえば、私の認識では、昨年4月には『近代仏教スタディーズ』を編纂・出版されるなど、「近代仏教」のスペシャリストであった。それにもかかわらず、今回の講座が扱うのは「現代仏教」である。佛教大学の教授には僧籍を持つ人もいるから、そういう人なら「現代仏教」を扱う意義もわかるが、大谷氏はお寺に生まれ育った人ではなく、僧籍も持っていない。
いや、今回の講座だけではない。昨年10月のシンポジウム「寺院縮小時代における〈社会貢献〉を考える」(主催:浄土宗平和協会)では、「ソーシャルキャピタルとしての宗教~近現代の浄土宗の場合」というテーマで講演された。今年4月8日のおてつぎ文化講座(主催:知恩院)に登壇されたときのテーマは、「現代社会における日本仏教の社会活動」だった。このところ、現代仏教の分野における活躍がめざましい。
なぜ、大谷氏は、近代仏教の枠にとどまらずに、現代の宗教までを含めた大きな視座のもとで、提言をされるのか。『近代仏教スタディーズ』のあとがきを読んでいると、次の言葉に出会った。
現在の日本仏教は多かれ少なかれ「近代」(日本社会の近代化や仏教の近代化)の影響を受けており、極論すれば、現代仏教は近代仏教である。
また「近代仏教」イコール「現代仏教」であることの好例として、
今では仏教者や仏教団体がFacebookやツイッターなどのソーシャル・ネットワーキング・サービス(SNS)を利用して、仏教の知識や情報を発信するのが当たり前のようになっているが、その源流は、明治30年代の新仏教運動のメディア活用に遡ることができる。また、僧侶の子どもが宗門系大学で仏教を学び、僧侶の資格を得るというしくみも明治時代以降に整えられた制度である。
ということなどを指摘されている。大谷氏は、近代仏教の研究の延長線上に、現代の社会を見つめている。「社会活動をする学者」である理由の一端を見た気がした。
メディア活用に関していうと、今年、知恩院では秋のライトアップ広報用に、プロモーション動画を撮影してYoutubeにアップした。この事業には私も携わった。大谷氏の書いているとおり、メディア活用なくしていまや布教教化はありえないし、メディアの種類が増えるほど布教教化の可能性が広がっていく。現代はやりがいのある時代である。
仏教教団の伝統的なイメージを重んじるあまり、新しいメディアを嫌って遠ざける人がいる。ことを荒げても仕方ないので、私は「経典はYoutubeを禁止していません」などと誤魔化したりしているが、これは冗談であって、私がメディアを活用する根拠は別のところにある。仏教はこの社会を構成する物質それ自体(つまりメディアも含む)を善悪中立なるものとしてとらえる。善悪とは人間の心についてまわるものだからである。したがって、新しいメディアそれ自体をやたらと忌避するのは間違っている。新しいメディアの特性をしっかりと吟味して、善なる情報を発信していくほうがよほど仏教的であるし、また、近代以降の時代状況を考えるなら積極的に取り組まねばならないと思うのである。
しかしながら、私は「仏教×メディア」の旗手でありたいわけではない。主眼に置いているのはメディアをうまく用いていかに仏教思想を現代に生かすか、である。
私が「仏教×近代」ということを考え始めたのは、学生時代にさかのぼる。私は、大学院修士課程を中退したが、いちおう修士論文の提出準備を進めていた。教授から「自由に研究したらいい」と言われたので、古典文献学の専攻であったにもかかわらず、「仏教×近代」をテーマに選んだ。
明治時代以降、日本人が近代的な思考に慣れていくにつれ、仏教経典の言葉をただ有難く拝読するのではなく、批判的に吟味しながら読むようになった。経典の成立年代の考証も行われ、大乗仏教は釈迦の没後数百年を経て成立した信仰運動であるということが、仏教学者の村上専精によって提出された。この「大乗非仏説」という見識は、今日では当たり前の事実になっているが、当時の仏教界に与えた影響は大変深刻なものであったらしく、村上は一時僧籍をはく奪されて還俗するに至っている。私は、論文のなかで、日本の仏教界が近代以降に避けて通れなかった道筋を読み解きながら、近代的思考の洗礼を受けた後で仏教はいかなる価値を発揮できるのか、ということを論じるつもりだった。しかし、最後まで仕上げられなかった。
今考えてみれば、古典文献学の専攻でありながら、このような思想研究あるいは宗教社会学的研究を提出するというのは明らかに無謀であり、論文を仕上げるまでの過程で紆余曲折があって、心が折れた。ちょうど発売されたばかりのドラクエ8にふけっていたら、論文の提出期限が過ぎて、ゲームオーバー。しかし、研究者として「仏教×近代」を論じることを離れても、僧侶としては「仏教の近代化」を越えて「仏教の現代化」には、力を尽くしたい。私の関心は思想にあるので、「仏教思想の現代化」を志している、ということになる。
「仏教思想の現代化」というのは、簡単に言えば、大乗仏教が釈迦の直接の言葉ではなく、ロケットではるか西の方角に旅立っても極楽浄土へとたどりつけないとわかっている時代に、どうすれば100パーセント納得して仏典の言葉を受け入れられるか、ということである。また、先に書いたような、なぜメディアを活用するのかなど、時代の変化に対応するための仏教的理由をしっかりと考えることである。
私にとってみれば、これこそが表のテーマであり、フリーペーパーの発行などは裏のテーマであるが(だからといって軽視するつもりもないが)、裏のテーマばかりが話題を呼ぶからもどかしい。キリスト新聞の寄稿などは、わりと踏み込んだ議論をしているつもりであるが、ほとんどスルーされる。ここにももう一つの見えない壁がある。宗教者の社会実践がクローズアップされるだけでなく、気軽に宗教を語れる社会が来ることを願う。