法然上人の幸福論⑦「魔法の洗剤の検証」

選択本願念仏集【第4章 三輩念仏往生の文】
(これまでに、「念仏ひとすじ」の生き方こそが阿弥陀如来の心にかなう、ということを見てきた。しかし、経典を読むと実は、修行のセンスがある人には念仏以外の修行も勧めている。この矛盾をどう解決するか、というのが今回のテーマである。)
不都合な情報を探せ!
ふとテレビをつけると、「家じゅうの汚れがこれ1本あれば魔法のようにキレイに!」などという、耳障りのいいフレーズが聞こえてくる。「“魔法”だなんてテレビショッピングはいつも大げさな…」と心の中でツッコミを入れつつも、つい気になって耳を傾けてしまう。司会者は言葉巧みに、「お風呂の汚れも、シンクの汚れも、新開発の酵素の力で簡単に洗い流せるんです! コンロ周りのしつこい油汚れだって、さっと拭くだけで落ちちゃいます!」と、商品の魅力に引き込んでくる。
説明を聞いているうちに、心に反省の声が響き始める。
「あ、コンロ周り、しばらく掃除してなかったなぁ。ゴシゴシこするのって面倒くさいもんなぁ。でも、この商品があれば、拭くだけでいいのか」
「いや、冷静になれ、自分! この前、お風呂用の洗剤もキッチン用の洗剤も買ったばかりだし、今月はもうこれ以上の出費は…」
などと逡巡しているうちに、画面のほうから「いまならお値段なんと2,980円!送料は無料。さらに、1本オマケします」と、購買意欲をそそる魅惑の言葉が流れてくる。さらには「番組終了から1時間以内にお電話ください!」と、畳みかけるように決断を迫られ、画面に表示されている番号にうっかり電話をかけてしまう。
――という「テレビショッピングあるある」を踏まえたうえで、さて本題である。
前回まで見てきたように、法然上人は、念仏に秘められたご利益について、理路整然と説明を重ねてきた。そして、念仏はどんなに心が汚れた人にも「魔法の洗剤」のように効くから、他の修行などやめて念仏のみを頼りに生きるように決断を促してきた。ちょうど、テレビショッピングの司会者のように、である。ということで、
「さあ、私たちは今日から念仏1本を心の支えに生きていこう!」
とはやる気持ちに駆られる人もいるかもしれないが、ここはいったん待ったほうがいい。
テレビショッピングの司会者は、都合のいい情報ばかりを並べる。私たちはそれを聞きながら、たとえば「汚れがよく落ちる洗剤はキツ過ぎて人体にもダメージがある」というような「不都合な事実」が語られずに隠されていないか、念入りに考える。
念仏の教えに関してもやはり同じだろうと思う。
もしかしたら、法然上人は自分の考えに合ったパッセージのみを、経典から恣意的に抜粋しているのかもしれない。『無量寿経』『観無量寿経』『阿弥陀経』を「浄土三部経」として定めたのであれば、これらの経典の教えと矛盾しないことが検証されてこそ、「念仏ひとすじ」の教えの正統性が確立されるし、本章の主題はまさしくそこにある。
選択科目と必修科目
「念仏ひとすじ」の教えと矛盾しそうなパッセージは、実際、経典のなかに見出される。
法然上人が本章においてまず引用するのは、『無量寿経』において、私たちの資質を3通り(三輩)に分類して、それぞれが果たすべき修行を説いている個所である。そこには確かに、もっとも修行センスのない人(下輩)については、「生前に功徳を積まずとも、教えを聞いてひたすらに往生を願えば、その願いは叶う」と語られている。まさしく「念仏ひとすじ」の教えのとおりである。
しかし、修行センスがある人についてはどうか。いくらか修行センスのある人(中輩)は、「在家のままでかまわないがひたすら念仏を重ね、戒を守り、仏塔や仏像を造立するなどの実践も合わせて行い、重ねた功徳により往生を求めるように」とある。さらに、かなり修行センスがある人(上輩)は、「出家して世俗的な繁栄を捨て、さとりを求める心を起こし、ひたすら念仏して多くの功徳を積んで往生を願うように」とある。
これを虚心に読めば、「念仏を唱えるだけでなく、仏塔や仏像の造立も行うほうが望ましいし、在家よりは出家して修行するほうが望ましい」と理解されるだろう。
なんだ、経典には「念仏ひとすじ」の生き方が説かれていないではないか!
この矛盾について、法然上人は善導大師の『観念法門』に見られる解釈を引用して回答するのだが、善導大師の切れ味はさすがで、
経典には修行センスのレベルが3段階にわけて説かれている。それぞれのセンスに応じて修行したらいいが、つまりは、阿弥陀如来の名前を念じるように勧めているにすぎない。
仏、一切衆生の根性の不同を説きたまふに、上中下あり。その根性に随つて、仏、皆専ら無量寿仏の名を念ぜよと勧めたまふ。
という。そう、重要なのは、修行センスのある人にもない人にも、念仏が推奨されていることである。すなわち、修行センスがある人のための「選択科目」としての多くの実践に目移りするよりも、センスがある人にもない人にも共通して勧められている「必修科目」の念仏に注目せよ、そこにこそ本質がある、ということである。まさに一刀両断である。
ただし、この解釈だけだと、「選択科目」すなわち「戒を守ったり、仏塔や仏像を造立したりするなどの実践」が不要であるというまでの理解にはいたらない。したがって法然上人は、いくつかの点から、「念仏ひとすじ」説を補強するのだが、
他の修行が無駄だったと気づいて、念仏に打ち込むようになるために、あえて他の修行を勧めているにすぎない。
諸行を廃して念仏に帰せしめむがために、しかも諸行を説く。
という理解するのがもっとも適切だと考える。冒頭の「魔法の洗剤」の話でたとえると、お風呂用、シンク用、キッチン用と洗剤を使い分ける手間を経験した人にこそ、すべての汚れに効く洗剤のありがたさがわかるということだろう。
細部より大局を見よ
しかし、まだ他にも、「念仏ひとすじ」の教えと矛盾するパッセージがある。
『観無量寿経』では、私たちの持つ修行センスが、さらに細かく9段階(九品(くぼん))に分類されている。そこにおいては、すべての修行センスの人に対して、念仏が「必修科目」として説かれていない。最上位のランクの人(上品上生(じょうぼんじょうしょう))は、慈しみの心をもって生き物を殺さず、戒を守って生きることなどが勧められている。念仏が推奨されるのは、下品(げぼん)と呼ばれる下位の3ランクの人たちに対してのみである。
となれば、やはり、あらゆる人に「念仏ひとすじ」を勧めるのは経典の教えに背くのではないか。
これについて、法然上人は、『観無量寿経』の9段階(九品)説と、『無量寿経』の3段階(三輩)説は、基本的に同じことを説明していて、丁寧に説いているか簡潔に説いているかの違い(開合(かいごう)の意)があるにすぎない、と理解する。
この解釈は、まあ、一理あると思う。
当時、あらゆる経典は、お釈迦さま本人が語った言葉だと信じられていた。『無量寿経』と『観無量寿経』は、お釈迦さまが語った時期や場所が違うにすぎない。だから、『無量寿経』で念仏を「必須科目」として定めたのであれば、『観無量寿経』にも同じことが説かれるはずである。したがって、法然上人は、源信僧都の『往生要集』の
『観無量寿経』には9段階の修行センスに応じた実践が説かれているが、これはわずか一部を示しているにすぎず、道理としては数えきれないほどの実践が挙げられる。
経に説くところの九品の行業(ぎょうごう)は、これ一端を示す。理、実(まこと)に無量なり。
という言葉を引用し、あいにく念仏は省略されているが、実践しなくてよいわけではなくて、「必修科目」であることに変わりはない、と結論付けている。
これは、現代の感覚からすれば、多少無理やり感がないだろうか。
私たちは、法然上人とは違う時代を生きている。経典はすべてお釈迦さまの言葉ではなくて、さまざまな作者の手による創作だということを知っている。いくら細心の注意を払って仏教の本質から外れないように著述していたとしても、作者が違えば、結果として経典間で矛盾する表現が生じることのほうが自然である。
したがって、私たちにとっては、「念仏ひとすじ」の教えの正統性を主張するために、『無量寿経』と『観無量寿経』になんとか整合性をつけて読んだところで、あまり意味をなさない。
表現の細部にとらわれるよりは、善導大師が念仏を「必修科目」と見抜いたように、大局的に経典を読み解いていく姿勢で経典に接するべきだろう。そして、その過程のなかで、「どんな人にも念仏が推奨されている」という教えの正統性を受け止めていくのが、「念仏ひとすじ」の教えへの疑念を晴らしていく近道だろう。