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なんで多様性を認めるの?

なんで多様性を認めるの?

龍岸寺と多様性

今月、講演をする機会をいくつかいただいているのですが、そのテーマの一つが「多様性」です。

日本の伝統的な社会においては、多様性を重んじるよりも「出る杭を打つ」のが好きな風潮があります。しかし、龍岸寺は、ドローンをはじめとしたテクノロジーを駆使したり、アイドルやメイド喫茶などのポップカルチャーを取り入れたりと、実に多様な分野とのコラボレーションを実現してきました。講演のお題として「多様性」をいただいているのは、このような龍岸寺をとりまく状況を評価してくれてのことでしょう。

人間のものさしの限界

龍岸寺が多様で斬新なコンテンツを誇るのは、住職の趣味によるものだとよく思われています。誤解を晴らすために言っておきたいのですが、私自身は、アイドルオタクでもなければ、メイド喫茶に入り浸っているわけでもありません。むしろ、どちらかというとアイドルもメイドも興味がない分野です。

では、なぜ興味がない分野とのコラボレーションを、あえて実施するのでしょうか。

それは、「人間は煩悩を持った生き物である」という仏教的な世界観が、私のなかに根差しているからです。

人間はつい自分が正しいと思うものさしで他人を判断しますが、実際のところは煩悩にとらわれた心での判断でしかありません。百パーセント正確な判断をくだすのは、私たちにはどうしても無理なのです。

そんなわけで、学生さんから「お寺でアイドルを育成したい」という提案をもらったときなど、内心では驚きもためらいもありましたが、自分自身のものさしをとりあえず心の奥にしまって受け入れたのです。

やむをえずの多様性

したがって、龍岸寺の持つ「多様性」というのは、他者の価値観を尊重すべきだという近年の風潮に影響されているわけではなくて、自分自身がとるに足りない人間だという仏教的内省にもとづいています。胸を張って正しいと言えないから、苦手な他者も尊重せざるをえないという、いわば「やむをえずの多様性」です。

なお、自分のことをあまりネガティブにとらえると、精神衛生上よくないと思われるかもしれませんが、それは問題ありません。私たちがとるに足りない人間であっても、太陽や月がこの世界を分け隔てなく照らすように、ブッダの光はひとしく優しく包んでくれるというのが、浄土教の教えだからです。

文 龍岸寺住職・池口龍法