お念仏ってどうしたらいいの?

弟子からの問い
去年の秋に「弟子になりたい」という相談が相次いで寄せられ、今年2月から2名の弟子を育てています。
そんななかで、「お念仏ってどう唱えたらいいですか」という質問を受けました。
そういえば、私も若き日にこの同じ問いにぶつかったのを懐かしく思い出しました。弟子以外にも同様に悩んでいる人もいるかもしれないと思って、以下に私なりの回答を記しておきます。
目指せ1日6万回!?
念仏というのは、ただ口に出して「南無阿弥陀仏」と唱えるだけの実践です。いつでもどこでも誰にでもできる平易な実践なので、「易行(いぎょう)」と言われます。浄土宗を開いた法然上人は、1日に6万回も念仏を唱えていたそうです。1秒間に1回唱えたとして、16時間以上かかる計算ですから、朝から晩までずっと念仏を唱える――そんなストイックな生活をしていたということになります。
私たち浄土宗のお坊さんは、修行時代にこの「1日6万回」を理想の数字として習うのですが、日常生活をしながらこれを実現するのはほぼ不可能です。電車に乗っているときも、映画館で映画を見ているときも、休日に家族団らんしているときも、一心不乱に念仏を唱えていたら社会生活に支障をきたします。法然上人の時代はともかく、現代において、「易行」はそんなにたやすい実践ではないのです。
回数よりも心持ちを
とはいえ、やむをえない事情があるとしても、「南無阿弥陀仏」と唱えることこそが唯一の実践なので、これが満足にできないと仏道修行が満足に進みません。「仏さまに見捨てられてしまうのでは?」という疑念も生まれてきます。
ただ、法然上人の言葉を読んでみると、唱える回数よりも、「至誠心(しじょうしん)」つまり偽りのない心をもって仏さまに向き合うことに、重きを置いていたようです。体裁だけ調えても、中身が伴っていなければ意味がない――これは仏道にかぎらず、私たちが生きていくうえで基本的な教訓でしょう。
したがって、平素から偽りのない真実の心で生きていくことが大事です。そうすれば、わずかな回数しか念仏が唱えられなくても、仏道は自然と深まっていくでしょう。そして、私たちの日々の暮らしもまた、充実したものになっていくことでしょう。

文 龍岸寺住職・池口龍法