法然上人の幸福論⑥-1「念仏以外無用!」

選択本願念仏集【第3章 弥陀如来、余行をもつて往生の本願としたまはず。ただ念仏をもつて往生の本願としたまへるの文】
(『無量寿経』によれば、阿弥陀如来は「極楽往生のための実践は念仏であり、他の実践では極楽往生は保証されない」と定めた 、というのが今回のテーマである。)
丸暗記するなかれ
前回、阿弥陀如来は、修行時代に48箇条からなる誓願を立てたという『無量寿経』の教えを紹介した。その48箇条のうちで善導大師や法然上人がもっとも大事だと位置づける第18条が、『選択本願念仏集』第3章のメインテーマになるので、改めて引用しておく。
どんな世界のどんな人であっても、心から私の国に生まれたいと望んで、私のことをわずか10回でも念じてくれたなら、その望みに必ず応えたい。それができる境地に達するまで、私は修行の旅を続けます。
もし我仏を得たらんに、十方の衆生至心に信楽して、我が国に生ぜんと欲して、乃至十念せんに、もし生ぜずんば、正覚を取らじ。
私は、浄土宗の僧侶になる修行道場に入って早々に、「この条文はきわめて重要な言葉だから、そらんじて言えるようになりなさい」と指導された。ちょうど、受験勉強で「ここがテストに出るから赤線引いて絶対覚えておくように!」と先生から教わったときの有無を言わせない感じに近かったと思う。
受験勉強は、出題されやすいポイントを攻略して点数を稼いでいくことが不可欠である。しかし、そのような勉強に、学問としての価値があるかというとそうではない。浄土宗の教えについても同じである。法然上人は頭脳明晰かつ直観力もあるがゆえに、「無量寿経はここが大事!」「阿弥陀経はここ!」と、カリスマ塾講師かのごとくに要点をズバズバついていく。が、要点を覚えて浄土教をマスターしたつもりになっていても、人生を支えてくれる生きた教えにならないだろう。私たちはこの第18条の真意を徹底して考え抜かねばならない。
ブッダの誓願
さて、法然上人は本章で「ブッダの誓願」について論じている。以下は、法然上人の理解に基づきながら、「ブッダの誓願」を概説する。なお、修行時代の誓いを「誓願」と言うのに対し、修行が完成してその誓いが実際に達成されたときには「本願」と呼ぶ。
大乗仏教の経典では、阿弥陀如来だけでなく、さまざまなブッダの修行時代の話が説かれる。修行中にはどんなブッダになりたいかという誓願を立てて修行を完成させていくというのが、ひとつのテンプレートになっている。
誓願は、あらゆるブッダに共通する「総願」と、それぞれのブッダ特有の「別願」の2種に大別される。
「総願」は、仏教徒なら誰もが持つべき矜持あるいはプライドのような内容で、
①あらゆる衆生を救います(度)
②あらゆる煩悩を断ち切ります(断)
③あらゆる教えを学びつくします(知)
④無上のさとりを得ます(証)
の「度・断・知・証」の四箇条である。ざっくり言えば「優しい人になります」「強い心を持ちます」「賢い人になります」「常に向上心を持ちます」ぐらいだろうか。この総願は各宗派で重んじられ、勤行においても唱えられるのがならわしである。
この総願に加えて、ブッダや菩薩それぞれにユニークな「別願」というものがあり、これがブッダや菩薩のキャラクターを特徴づけていく。阿弥陀如来の場合は、『無量寿経』に説かれている48箇条の誓いがこれにあたる。先に引用した第18条以外にも、「私の国(=極楽浄土)では地獄・餓鬼・畜生がいないようにしたい」「私の国では誰もが超能力(神通力)を持てるようにしたい」「私の国では誰もが無限の命を持てるようにしたい」など、夢と希望に満ちた世界を作ろうとする誓いが数多く説かれている。
阿弥陀如来はなにを誓った?
そして、カリスマ塾講師のごとく要点を突くのが得意な法然上人は、阿弥陀如来の多くの誓願を吟味したうえで、「衆生救済を約束した第18番目の誓いこそがすべて」だと主張する。『選択本願念仏集』第6章では、
「阿弥陀如来の誓いは48箇条からなるが、ただ念仏こそが私たちには大事である。私たちが阿弥陀如来を念じれば、阿弥陀如来も私たちを念じてくださる。ひたすら阿弥陀如来に想いを馳せれば、阿弥陀如来は私たちのその想いを知ってくださる」
この善導大師の言葉にすでに示されるように、念仏による往生を説いた第18願こそが本願のなかの王なのである。「弘誓、門多くして四十八なれども、偏に念仏を標(あら)はして、最も親しとす。人よく仏を念ずれば、仏還つて念じたまふ。専心に仏を想へば、仏、人を知りたまふ」と。故に知んぬ、四十八願の中に、既に念仏往生の願を以て、本願の中の王と為す。
とまで断言している。ここから、「念仏往生の願」は、「王本願」とも言われる。
そして、本章第3章でフォーカスされるのは、この最重要の王本願において、阿弥陀如来は「念仏こそを極楽往生のための実践として選択した」ということである。すなわち、
いままで見てきたように、極楽浄土以外にもさまざまな浄土があり、往生していくための実践はそれぞれ異なっており、そのすべてを書き尽くすことはできない。阿弥陀如来は、先に書いたような、施しを行うこと(布施)や戒を保って自分に厳しく生きること(持戒)、あるいは、親を敬って恩に報いる(孝養父母)など他のあらゆる実践を捨て、ひたすら南無阿弥陀仏を唱えることを選び取った。だから「選択」というのである。
かくの如く往生の行、種々不同なり。つぶさに述ぶべからず。即ち今は前(さき)の布施・持戒ないし孝養父母(きょうようぶも)等の諸行を選捨して、専称名号を選取す。故に選択と云ふなり。
というのが法然上人の見識である。
ここまでを整理しよう。
- 『無量寿経』に説かれる阿弥陀如来の願いのうち最重要は第18条である。
- 第18条には「心から私の国に生まれたいと望んで、私のことをわずか10回でも念じてくれたなら、その望みに必ず応えたい」と説かれている。
- よって、阿弥陀如来の国・極楽浄土へと往生するための実践は、念仏以上でも念仏以下でもない。
ということになる。
論理の飛躍を超えて
この解説を読んで、「法然上人、『無量寿経』の教えをわかりやすくまとめてくださってありがとうございます!」と喜んではいけない。
なぜなら、常識的な感覚で『無量寿経』を読んだときに得られる理解とは、まるで異なるからであり、その差異を認識することこそ浄土教への入り口となるからである。
常識的に経典を読むならば、修行時代に誓った48箇条すべてが阿弥陀如来の個性を形成しているから、そのひとつひとつに優劣などつけられない。ひとしくありがたく味わいながら、美しい極楽浄土への思慕を深めるだろう。
また、『無量寿経』には、たしかに「念仏すれば極楽浄土に往生できる」と説かれているが、「念仏以外の行を捨てなさい」とまでは書かれていない。法然上人の言うように、極楽往生のためには念仏以外の実践はなにも意味がないとまでは思えない。
もし本当に、法然上人の言う通りであるとすれば、いままで積んできた善根は無意味になるのだろうかという疑問も生じる。「あれ、お葬式などでお坊さんにお布施をしても、極楽往生の足しにはならない?」「生前に親を大事にしてきた立派な人格者でも、死後に阿弥陀如来に見捨てられたりするなんて!」と戸惑う人もいるのではないか。
私は、善導大師・法然上人流の解釈は、どう考えても論理の飛躍があると思う。
同時にまた、結論それ自体はきわめて的確で、さすがとしか言いようがないとも思う。
どういうことか。
前回のコラムのタイトルは、「世界は願いで作られる」だった。私たちの「願い」には、世界を変える力があることについて解説した。叶えたいと願う未来があるとき、私たちは毎日を力強く生きていくことができるし、毎日を力強く生きていった先には、大きな願いさえも叶えることができる。浄土教では、このような「願い」の持つ力を大事にしてきたことを書いた。
しかし、現実はそう甘くはない。この世界ではどうしたって叶わない夢のほうが多い。
メディアで活躍するスターに憧れて「プロスポーツ選手になりたい」「ミュージシャンになりたい」「アイドルになりたい」などと願い、仮にすべてをなげうって努力したところで、よっぽど才能や環境に恵まれていないかぎり、その願いが叶うことはない。お金持ちになりたいと願ってあくせく働いても、裕福になれない人も多い。元気で長生きしたいと願って日頃から節制していても、原因不明の難病や不慮の事故で夭逝する人もいる。
すなわち、この形ある世界というのは、願いを叶えようにも大きな制約があるのである。
しかし、私たちがこの世での命を終えて以降の形なき世界では、話がまるで異なる。仏教では、輪廻する主体としての私たちの心は、死後も続いていくと考える。死後は、形ある世界の制約を受けないから、心は願いのままに自由に羽ばたける。したがって、極楽浄土に往生できるかどうかは、単純に、私たちが心のなかで「極楽往生したいと願えるか」にかかっている。言い換えるなら、「極楽浄土の主である阿弥陀如来を念じられるか」がすべてである。もし、生前に多額の布施を寄進したり、戒律を重んじて清く正しく生きていたとしても、心に阿弥陀如来への思慕がなければ、死後に極楽浄土へと趣くための糧にならない。
そう、法然上人の論理は飛躍しているようでありながら、達している結論は間違っていない。『無量寿経』には、念仏以外の実践を明確に否定しているわけではないが、法然上人が断言している通り、極楽浄土へと往生するための実践は、念仏以上でも念仏以下でもないのである。