法然上人の幸福論

法然上人の幸福論⑤-2「世界は願いで作られる」

法然上人の幸福論⑤-2「世界は願いで作られる」

選択本願念仏集【第2章 善導和尚、正雑二行を立てて、雑行を捨てて正行に帰するの文】

(「仏道修行イコール念仏」ととらえるのが浄土宗だが、その根拠は、「阿弥陀如来がそう願っているから」だと示される。この言葉をどう理解すればいいのか、というのが今回のテーマである。)

阿弥陀如来がそう願っている???

前回、なぜ念仏を唱えるだけで十分なのか、他の修行はすべてスルーしていいのか、という理由について、善導大師はシンプルに、

阿弥陀如来がそう願っているから。

かの仏の願に順ずるがゆえに

と述べ、これに法然上人が感銘を受けた、ということを書いた。

宗教的天才二人なら、言語化しようのないブッダの世界のことも、わずかな言葉で通じ合えるのかもしれないが、通常はそんなあっさり腑に落ちない。ここはやはり詳しい説明が要ると思う。

まず、この言葉の教科書的な説明を見ておこう。

『無量寿経』には、阿弥陀如来の修行時代の話が細かく記されている。

阿弥陀如来は、修行時代の名を法蔵菩薩と言った。法蔵菩薩は、五劫という長い歳月にわたって、自分がさとりを開いたときにはどんな理想的な世界を作るかについて想いをめぐらし、48箇条からなる誓願を立てた。政治家が選挙戦に臨むときに、どんな国を作るかについてマニフェストを掲げる姿を想起していただくとわかりやすいかもしれない。政治家のマニフェストは、仮に当選しても実現されないことが多々あるが、『無量寿経』によれば、法蔵菩薩は修行の末に48箇条すべてを実現して理想郷の建立に成功し、ついに如来の境地に達したという。

その48箇条のうちの第18条には、

どんな世界のどんな人であっても、心から私の国に生まれたいと望んで、私のことをわずか10回でも念じてくれたなら、その望みに必ず応えたい。それができる境地に達するまで、私は修行の旅を続けます。

もし我仏を得たらんに、十方の衆生至心に信楽して、我が国に生ぜんと欲して、乃至十念せんに、もし生ぜずんば、正覚を取らじ。

という誓願がある。この誓願も達成されたということなので、私たちは阿弥陀如来を念じるだけで、阿弥陀如来のもとに迎えてもらえる。だから、善導大師が述べたように、私たちが念仏を唱えるのは、他でもなく「阿弥陀如来がそう願っているから」ということになるのである。

だが、この教科書的な説明で、皆さんは納得できるだろうか。

「『無量寿経』ってお釈迦さまの言葉ではなく、後世のインド人がお釈迦さまの名前で作った二次創作やん。阿弥陀如来の願いも全部作り話やん!」
「フィクションの世界やから、誓願が全部叶って当たり前やん!」

などの疑念はいつまでも拭えないのではないか。

私たちは、『無量寿経』を含む大乗経典が、お釈迦さまの名前を語って作られた二次創作だと知ってしまった時代に生きている。経典の一言一句をその通りに真実だと受け止めるのは、アニメや漫画の作品のなかの世界と現実世界を混同するようなものではないか。

世界は願いで作られる

では、「阿弥陀如来がそう願っているから」は、どう理解したらいいのか。

私は、「願う」というこのありふれたワードを、仏教的な意味において正確にとらえることが大事だと思う。

宗教というと「信じるもの」だとつい考える癖があり、特に浄土教とは「阿弥陀如来を信じる教え」だと見なされている。しかしながら、私が仏典を読んだ感覚としては、浄土教を包んでいるのは、「信じる」よりも「願う」という感情である。実際、浄土三部経やこの『選択本願念仏集』に全文検索をかけると、以下の通り、「信」よりも「願」のほうがはるかに頻出する。

仏典「願」の使用回数「信」 の使用回数
『無量寿経』68回35回
『観無量寿経』18回4回
『阿弥陀経』7回11回
『選択本願念仏集』191回56回

浄土真宗の祖である親鸞聖人は「信」をことさらに強調するし、ワードの使用回数だけで、「信」よりも「願」のほうが大事だというつもりもない。ただし、「願」は仏教的な世界観を適切に継承しており、きわめて重要な概念であることを、私は強調しておきたい。このことを端的に示すのが、源信僧都の『往生要集』の次の言葉である。

あらゆるものは、願いによって作られている。願いなくして存在するものはない。だから、私たちは、願いを正しく持つことが大切である。
一切の諸法は願を根本となす。願を離れては則ち成ぜず。この故に願を発す。

『往生要集』では、竜樹菩薩の『十住毘婆沙論』の引用としてこの言葉が載っているが、私はこの箇所を読んだとき、「竜樹はこんなこと言わんやろ」という奇妙な感覚があった。原典を調べてみたら、版本のなかには源信僧都の引用の通りのものもあった。しかし、前後の文脈もふまえて考えるとやはり誤植で、「あらゆるもの(一切の諸法)」ではなくて、「(あらゆるブッダの教え(一切の諸仏の法)」という版本のほうが正しい。

竜樹菩薩のもともとの意図はまったく異なっていて、

あらゆるブッダの教えの根底にあるのは願いである。(自らさとりを開いたのちには、あらゆる人々を救済したいという)願いがもとになって、ブッダの教えが成り立っている。だから、(仏道を志す者は)願いを起すのである。
一切の諸仏の法は願をその本とす。願を離れては則ち成ぜず。この故に願を発す。

だったはずである。

このような「ブッダの願い」はきわめて尊いものなので、「私たち凡人の願い」と一緒にするのはおそれ多い。だから、竜樹菩薩だけでなく、善導大師も法然上人も「すべては願いでできている」という解釈は好まないはずである。源信僧都もおそらく誤植とわかっていただろうが、あまりに素敵な誤植だったから、あえてそのまま用いたのだろう。私としても、仏教の世界観をゆがめることなく、日本的な情感を加えた超ファインプレーだと称賛したい。

仏教は世界をどう見るのか

仏典に説かれる世界観というのは、この物質世界は物理法則によって支配されていると考えるのではなく、私たちの業によって形成されているととらえるのが原則である。『阿毘達磨倶舎論』では、宇宙の起源についてさえ、

あらゆる人間の業に支配された力によって、なにもない空間にかすかな風が吹く。これが宇宙が誕生する兆候である。
一切の有情の業の増上力によりて、空中に漸く微細の風の生ずること有り。これ器世間の将に成ぜんとする前相なり。

と、業の力によって説明されている。このような業は、私たち一人ひとりの業とは区別して、共業(ぐうごう)と言われるものである。人間が世界中で二酸化炭素を放出したら、地球が温暖化するというのも、共業のひとつの例である。

私たちが日々作り出している業には、身口意の三種類があるとされる。つまり、身体的な行いや口から発する言葉に加えて、心のなかで思うだけでも、業を積んだということになる。身体的な行いや口から発する言葉は、つまるところ私たちの心の表れであるから、この世界は私たちの心でできているとも理解される。たとえば、『華厳経』には、

すべては心の表れにすぎないというこの世界の本質を正しく観ることができたなら、過去・現在・未来のあらゆるブッダをことごとく知ることになるでしょう。
もし人、三世一切仏を了知せんと欲せば、まさに法界の性を観ずべし。一切はただ心の造れるのみなり。

とある。

このような、人間の「業」や「心」によって世界を眺めるという仏教に通底する態度を受け継ぎながら、源信僧都は、あらゆるものは「願い」によって作られていると言い換えた。そう、私たちは日々、願いを持って生きている。叶う願いもあれば、叶わない願いもある。崇高な願いも、邪まな願いもある。私たちみんなが、まっとうな願いを持ってまっとうな努力をすれば、この世界は幸せに満ちていくはずだが、現実がそうならないのは、私たちの願いがちっぽけだったり汚れていたりするからだろう。それでも、私たちはいつか明るい未来が来ることを願って生きている。

「業によって作られる」だと、自分の積んできた悪業にさいなまれてしまう重たさがあるし、「心の表れ」は事実そうだとしてもあまりに儚い。「世界は願いで作られる」と受け止めるほうが、よっぽど希望を感じさせてくれる

願いは力になる

「願い」についていろいろと書いてきた。

にわかに「阿弥陀如来がそう願っているから」と言われても、見えない世界のことでどう受け止めていいかわからないなら、身近な願いに置き換えてみるといいだろう。仮に自分の子供が「海外留学したい」と願ったと考えてみてほしい。子供が本気でそう願っているなら、英会話に通わせたり、留学費用をなんとか工面したり、留学先を一緒に考えたりと、できるかぎりの支援をするだろう。

曇鸞大師は、『往生論註』のなかで、阿弥陀如来が修行時代に願いを立てて精進したことを讃えて、

願いを抱けば力が生まれる。力が生まれれば願いが成就する。
願をもって力を成ず。力をもって願に就く。

と書いている。これは鋭く本質をついていると思う。私たちの身に照らしてみても、自分の未来への願いが定まったときには、自然と力がわいてくる。その力こそが、周りの協力者も巻き込みながら、願いを叶えていく。

善導大師は、『無量寿経』に説かれている阿弥陀如来の修行時代のエピソードから、つまるところ、私たちに慈しみを注ぎたいというのが阿弥陀如来の願いであり、阿弥陀如来の力なのだと見抜いた。

そうであれば、その願いに、その力に身を任せればいい、というシンプルな理解である。

子供が「海外留学したい」と言い出したとき、それを全力で応援しようとするように。

あるいは自分自身が、ローンを組んででも家や車を購入したいと本気で願うなら、その夢に向かって全力を尽くそうとするように。

慣れないうちは「阿弥陀如来がそう願っているから」を素直に受け止められないかもしれないが、浄土教では、自分の願いにも、他人の願いにも素直に心を開いていくことを教えている。それは、私たちがこの世を生きていく大きな道しるべだといえるだろう。願いを大事に生きていけば、やがては阿弥陀如来の願いにも心が開かれていくだろうと思う。