法然上人の幸福論

法然上人の幸福論③-2「世界地図を手に入れよう!」

法然上人の幸福論③-2「世界地図を手に入れよう!」

裏口入学、なにが悪い?

前回、「さとり」を求めて仏道の旅を続ける「聖道門」の修行スタイルを「バックパッカー」に、阿弥陀如来の「すくい」に乗っかって極楽浄土へとひとっ飛びする「浄土門」を「パックツアー」にたとえた。そして、バックパッカーだろうがパックツアーだろうが、目的地にたどりつくのが問題であって、旅のスタイルはどうでもいいという話を書いた。

しかし、まだ納得できない人がいると思う。

努力をせずに目的を達成するなんて、たとえば、大学を正規の方法で受験せずに、関係者に賄賂を渡して裏口入学するようなものではないか。そんなやり方で入学したところで、学力が伴わなければ入ってから苦労するし、なによりお金の力で点数を買おうという発想が汚らわしい、と。

でも、仮にそう批判する人がいたとして、極楽浄土へのパックツアー派の道綽禅師や法然上人なら、「え、裏口入学のなにが悪いの?」と開き直ったんじゃないかと思う。

これは、意外なようで一理も二理もあるだろう。

だって、ご存じの通り、大学の受験勉強はきわめて無駄が多い。古文の係り結びを覚えても、数学の微積分をすらすら解けるようになっても、それを専門とする分野に進まないかぎり、まるで人生の役に立たない。10代の多感な歳月をそんなつまらない勉強に費やすぐらいなら、親にお金を払ってもらってでもさくっと大学に入学し、より人生が有意義になるように時間を使ったほうがよっぽど賢明である。しっかり世のため人のために働いて給料をもらい、親にお金を返し、社会のためにも貢献すれば、誰ひとりとして損をしない。

受験勉強をどうクリアするかという「手段」にとらわれても仕方ない。大学で学問を習得し、なりたい自分になっていくという「目的」こそが大事なのである。

まあ、裏口入学をたとえにするとさすがに聞こえが悪い。しかし、実際には、私たちは努力を放棄して、お金で解決するという裏口入学に類する営みを、日常的に行っている。

お米も野菜も、都会に暮らす会社員は自分で作れないから、農家の人たちが汗水流して作ってくれものを買って手に入れている。PCやスマートフォンなどの電子機器も、技術者が日夜開発に明け暮れて製造したものを、お金を払って購入している。お金を払うだけで自分の暮らしが改善されるなら、合理的に割り切って、早めにさくっと払ってしまったほうがいい。そのほうが農家の皆さんも技術者の皆さんも報われる。

さとりへのチェックポイント

「浄土門」の立場は、これと同じようなところがある。

前回のコラムに書いたように、竜樹菩薩は『十住毘婆沙論』のなかで、仏道の歩み方に2種類があり、それは「陸路の歩行」という険しい道と、「水道の乗船」という易しい道だと説き明かした。そしてこのうち、前者をバックパッカー派、後者をパックツアー派と、私はたとえた。

ただし、竜樹菩薩は、陸路を選んでも、水路を選んでも、どちらも同じように「さとりを開ける」とは言っていない。「不退転(阿惟越致/あゆいおっち)の位に到達できる」という言い方をしている。『選択本願念仏集』のなかでも、法然上人はこの竜樹の意図をはっきり理解して受け継いでいる。

読者の皆さんは、いま「不退転の位???」と思っているだろう。

お坊さんでもなければ、「不退転の決意」のような表現でしか、「不退転」という言葉を意識したことがないだろう。

仏教における「不退転」とは、文字通り、いったん到達した境地から退転しないことをいう。つまり、「不退転」まで達したとら、すぐに煩悩がなくなるわけではないが、仏道修行へのモチベーションが正しく確立されるから、迷わなくなるということである。

そうすると「不退転の位ってすごく深淵な境地なんだ」と思われがちだが、これはよくある誤解である。

「さとり」というのは、仏教徒の究極的な夢である。しかし、「不退転」のほうは、現実的に達成できる目標として理解すべきだ、と私は主張したい。

「さとり」への道筋は、仏典によってさまざまに解説されていて、そこにはインド人の突拍子もない妄想なども含まれているから、すべてを真に受けることはできない。しかし、どの道筋を歩むにしても、途中で「不退転」というチェックポイントを通るのが約束事になっている。ただし、仏典では必ずしも「不退転」という言葉で示されるわけではない。『選択本願念仏集』の表現で言えば、「小乗仏教(上座部仏教)の修行者は、迷いを断って道理を証得し、聖者となってさとりの果報を得る(入聖得果)」とあるが、「聖者」というのは要するに凡人とは違う精神的境地に入ったことを意味しており、「不退転」と同じ境地を指している。

つまり、「不退転」に関しては、なにかしらそういう境地があることが広く共有されていたといえる。

世界地図を手に入れよう!

それにしてもなぜ、「不退転」なるものが存在することを、仏教では部派や学派を超えて共通認識として持ってきたのか。

これには明確な理屈があって、仏道修行を重ねて心のなかを空っぽにしていくと、ふと「無」の境地に入ることがある。「無」の境地に入ると、いままでのエゴが崩れ去り、ありのままの世界が現れてくる。ああ、百聞は一見に如かず、「これこそ無我の風景か」と、仏典が目指してきたものを直観する。

スポーツ選手が超集中状態に入ることを、「ゾーンに入る」という表現をする。「ゾーンに入る」とボールが止まって見えたりするらしい。これもおそらくは「無」の境地と同じだと思う。

しかしながら、この「無」の境地は、残念ながら長く続かない。なぜなら、私たちの煩悩は、心の奥に深く刻み込まれているので、一瞬心のなかが空っぽになっても、また煩悩が立ち現れて汚されてしまうからである。だから、この「無」の境地は、「滅尽定(めつじんじょう)」と呼ばれる究極的な「無」の境地とは区別して、「無想定(むそうじょう)」と呼ばれる。

でも、「無想定」というレベルの低い「無」であっても、いちどでも無我の風景を目の当たりにしたら、人生の質が異なる。なぜなら、わずかな時間でもさとりの国の風景を拝んで達観できたとき、私たちは迷いの国からさとりの国へと進んでいくための世界地図を手にするからだ。地図があってもやはり道に迷うことはあるが、迷ったらまた地図を見て進めばいい。人生もこれと同じで、「不退転」に達したからといって煩悩がなくなるわけではないが、自分自身の生きていく方向を見失わなくなる。だから、「不退転」に入ることが、仏教においてきわめて重要だとされてきたのである。

さて、インド人は気質としてバックパッカー派だと書いた。つまり、すでに書き残されたさとりの国への世界地図があったとしても、それを信じるよりは自分自身が検証しながら歩むことを好んだ。道中にあるらしい「不退転の位」を目指し、「不退転の位」を超えてさらに歩んでいった。そして、多くのバックパッカー派の修行者がその旅行記を書いたおかげで、さとりへの世界地図は十分すぎるほどに作られた。

一方、パックツアー派の道綽禅師や法然上人は合目的的なので、「せっかく便利な山のように世界地図があって、みんな同じような地図を書いてるんだったら、たぶん間違いないから信じて使っちゃえばいいじゃん」と考えた。

これはすごく理にかなっていると思う。

私たちも生活のなかでたとえばグーグルマップを使うとき、「地図サービスをグーグルが提供してるならおよそ正しいだろう」と信じている。地図それ自体が正しいかどうかを疑って、いちいち測量調査をしたりするのは無駄である。PCやスマートフォンを買うときも、そのプロダクトを製造したメーカーが信用でき、口コミも悪くなければ、「まあ大丈夫だろう」と信じて購入する。お米や農作物も、パッケージに書かれている産地や生産者の情報を信じて購入する。

現代においては、仏教をはじめ宗教を信じることに抵抗感を覚える人がいるが、実際には、私たちはいろんなものを信じることによって、日々の暮らしを築いている。信じるというコマンドを多用したほうが、生きやすいことを私たちは知っている。

信じられるものは信じたほうが手っ取り早い。

道綽禅師や法然上人が気づいたのはまさしくこのことである。仏典の教えが信じるに足るものであるなら、さくっと信じてしまうほうが迷いなく生きられる。仏典を信じられた時には、ちょうどグーグルマップを便利だから使おうと思った瞬間のように、迷いなく歩んでいける「不退転の位」に一瞬でたどり着いてしまうのである。

それでも、仏典の教えがにわかに信じがたいという人もあるだろう。しかし、この連載コラムの目的はまさしくそこを解決するためである。

経典はフィクションに満ちているとすでに書いたが、インドの仏教徒によって書かれたものは、哲学的に書かれているはずの論書でもあっさりと空想の世界へと飛び立っていく。だから、現代の私たちは、読んでいて置いてけぼりを食らう。

「不退転」をはじめ、ロジカルに理解できるものを取り出していけば、「どうやら仏典は正しそうだ」と信じてもらえるだろう。そう願って書き綴っていきたい。