掲示板法話「信じる者は救われる?」
詐欺に注意!
先日、ネット上の古書店で、レアな仏教の専門書が安価で売られているのを見つけて、「これは今すぐ買わなきゃ」と、さっそく注文しました。でも、代金を銀行から振り込んだのですが、一向に商品が届きません。嫌な予感がしました。連絡を入れてみましたが、つながりません。詐欺だと気づきましたが、もう手遅れです。「まさか仏教の専門書みたいなマニアックな商品で詐欺行為を行うことはないだろう…」と、物欲にかられて軽率に信じた私がバカでした。「信じる者は救われる」よりも「人を見たら泥棒と思え」ということわざを、肝に銘じようと思いました。
この文章を読んでくださっている皆さんも、「明日は我が身」かもしれません。お金のやり取りをする前には、「オレオレ詐欺」なども含め、騙されている可能性がないか細心の注意を払いましょう。
気軽に信じられない時代に
私たちが日々の多くの時間を費やすネット上の匿名の空間は、虚構であふれています(それがネット空間の楽しみでもあります)。どうしても私たちは疑い深くなっています。そうしないと、私のように詐欺被害に合ったり、そこまでいかなくても偽の情報に踊らされたりします。
本当は、人と人は、信じ合い、敬い合えるほうがいいに決まっています。
「人を見たら泥棒と思え」と誰もかれも疑ってかかるのは、あまり気持ちの良いものではありません。いまでは街の中に防犯カメラがあふれかえっていても気になりませんが、最初の頃はプライバシーが侵害されるようでずいぶん抵抗があったものです。
さらに、いつ騙されるかもしれないと不安を抱えていると、素直に「信じる」感覚を忘れてしまいがちです。疑い深く生きざるをえない私たちは、仏さまを信じたり、両親や上司や先生を心から敬ったりすることが、苦手になっているように思います。
疑うから信じられる
ところで、「信じる」ことと「疑う」ことは、本当に相反するのでしょうか。
仏典を読むと、「信じるというのは、教えをはっきりと理解し、実践しようと意欲を持つこと」だと記されています(『十住毘婆沙論』)。要するに、道理について疑わしく思うところがあるなら、その疑いを晴らしていけば自然と信じられるようになり、そして、そこから力強く生きようとする力もわいてくるわけです。「信じる」というと、「疑う」ことをせずに鵜呑みにすることのように思われていますが、「信じる」ことと「疑う」ことは、案外結びついているのです。
だから、詐欺などの被害から身を守るために疑う力を身に付けざるをえない時代なら、その疑う力を正しいものや美しいものを見極めていくためにも使いたいものです。曇りなく信じられるものが見つかったときには、私たちの心はきっと良い感情に包まれ、救われていることでしょう。