掲示板法話「やさしい人ってどんな人?」
優しい人になりたい!
私の子供が通う小学校を訪ねた時のことです。「どんな大人になりたいか」を発表する場面があり、クラスの子供たちのほとんどが、キラキラした眼差しで「優しい人になりたいです!」と声高らかに宣言していました。「優しい人になりたい!」は、子供も大人も共通して抱く、普遍的な願いなのだろうと思いました。
でも、私たちが「優しい人になりたい!」と願うのは、意地悪な見方かもしれませんが、優しく生きられていない自分がいるからです。私自身もそうです。たとえば、週末。お寺は法事が入るため忙しく、法事の読経は30分ぐらいずっと本堂に響き渡るほどの声を出し続けるので、それなりに体力が要ります。いくつもの法事を終えた後の日曜日の夕方とか、さすがにゆっくりしたい――という私の気持ちを子供たちは察してくれません。「お父さん、せっかくの日曜日だしお出かけしたいなぁ」というおねだりに、「ごめん、今日は無理…休ませて…」と優しく振舞えないときがあります。まあ人間ってそんなものですよね。
優しさってなんだろう?
ところで、「優しい人」とは、どんな人のことでしょうか。
仏教では、「優しさ」を「慈悲」と言います。「慈」と「悲」は意味が異なります。「慈」は「人を幸せにすること」、そして、「悲」は「苦しみを取り除くこと」で、この2つを合わせて「慈悲」です。では皆さん、胸に手を当てて考えてみてください。自分の幸せよりも他人の幸せを願い、苦しんでいる人には分けへだてなく寄り添うという、「慈悲」の心をもって優しく生きられていますか?
「優しい人」でありたいと願うのは誰でもできますが、理想通り生きるのはやはり難しいものです。あらゆる人に等しく愛情を注げるのは仏さまぐらいで、だから仏さまのぬくもりを特に「大慈悲」とたたえます。でも私たちにも、小さな慈悲の心は宿っています。その心を少しずつ大きく育んでいくことが大切です。
雨にも負けず
詩人・宮沢賢治は、仏教にも深く傾倒した人だと知られています。有名な「雨にも負けず」という詩に、このような一節があります。
東に病気の子供あれば 行って看病してやり
西に疲れた母あれば 行ってその稲の束を背負い
南に死にそうな人あれば 行って怖がらなくても良いと言い
北に喧嘩や訴訟があれば つまらないからやめろと言い
私は、「行って」というところがスゴいなぁと思います。苦しんでいる人がいると知ったら、「かわいそうだなぁ」で済ますのではなく、わざわざ助けに行く。喧嘩もとばっちりを恐れず仲裁に入る。いやあ簡単にできることではありません。これぞまさに仏さまの境地であり、「大慈悲」の実践といえるでしょう。