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安井算哲・渋川春海と龍岸寺

渋川春海と龍岸寺

寺史によれば龍岸寺は僧・三哲によって、元和2年(1616)に創建されたとされる。龍岸寺の山門前の通りは、いまは塩小路通と呼ばれるが、かつては三哲通だった。しかし、三哲がいかなる人物なのかは、寺史にも「生国姓氏剃髪師範共ニ知ラズ」(表紙参照)と記されるのみで、生まれや育ちについては長年わかっていなかった。

きっかけは、あるコラムだった。

「いま、三哲と呼ぶこと、この通り、大宮東入る町、北側に、渋川三哲と言ひし人の屋敷ありし故」(京町鑑)とある。三哲は、その屋敷を、立願寺(りゅうがんじ)という寺にした。古地図の立願寺をみると、三哲が、見える。

「京ことば 『さんてつ』 相馬大」(鼓月ホームページ)

『京町鑑』は宝暦12年(1762)に刊行された京の町の案内記。三哲通の項を見てみると、上の画像の通り、確かに「立願寺」についての言及があった。当山の住所は「塩小路通(=三哲通)大宮東入」であるから、完全に一致する。すなわち、京町鑑の「立願寺」とは「龍岸寺」である。

渋川三哲は、渋川春海という名で知られる。渋川家は清和源氏の出である。春海は寛永16年(1639)に生まれ、子どもの頃から天文学に興味を示した。14歳で父を亡くしてからは、幕府の碁方として、父と同様に江戸と京を行き来する生活を送った。京都にいる間には知識人と交流を深めた。

21歳のときには各地をめぐって天体観測し、科学的考究を重ね、日本初の国産歴である大和歴をつくり、貞享の改暦に力を尽くした。その功績が認められ、貞享元年(1684)には、幕府から天文方に命じられた。なお、平成24年に上映された映画「天地明察」(原作・冲方丁)は、春海の生涯を描いた作品である。
龍岸寺の現在の本堂は、平成初年の瓦葺替え事業の折に、棟札の記録から貞享年間に建てられたことが判明している。春海が江戸に移住したときに屋敷跡を本堂にしたのだろう。

渋川春海が子 昔尹の名で発行したとされる日本初の星図「天文成象」

春海の父 算哲の生涯

ただし、春海の生没年代(1639~1715)を考えると、龍岸寺の開創年代(1616)に合わない。寺史が開基と伝える「僧 三哲」は、その父の安井算哲(三哲)である。

安井算哲は、当山の開基ではあるが僧侶としては無名で、活躍したのはむしろ囲碁の世界である。以下は、明治時代に囲碁の歴史を書いた『坐隠談叢』によって、算哲の生涯を概観する。

算哲は幼くして囲碁に秀で、11歳の時に徳川家康に謁してその才能を認められている。19歳にして剃髪し、毎年、御城碁をつとめた。
慶長19年(1614)の大阪の陣のとき、安井一族は西軍に属したが、算哲は棋士として家康の寵を受けていたので東軍についた。大坂の陣が終わってからは、居宅を京都に構え3月から12月までは江戸で暮らす生活を続けた。
算哲には三男一女があり、その長男が春海であるが、晩年にできた子だったため、家を譲ったのは門人算知だった。碁院安井家の旧記によれば慶安5年(1652)1月9日に63歳で没したという。法号は正哲院紹元。

算哲の没年については、当山本堂の位牌には、「正保四丁亥年九月四日」とある。この正保4年(1647)か、碁院安井家に伝わる慶安5年か、いずれが正しいのかはわからない。ただし、当山の位牌には、源蓮社長誉三哲とあるが、これは開基の功績を讃えて後世に贈号されたものだと寺史に記されているから、碁院安井家の記録に残る法号と違っていても矛盾はない。

龍岸寺の草創期を想う

算哲の生涯を振り返れば、元和2年(1616)と伝えられる当山の開基年代が極めて腑に落ちる。ああ、大坂の陣のあとに、算哲が京都に来て居宅を構えた地がここだったのかと。

算哲が生きていたころには、本堂らしい外観は備えていなかっただろうし、お寺らしい営みがどれほどあったのかわからない。ただし、寺史は算哲を「但シ平僧」と記す一方で、「二代目ヨリ上人寺也」と伝えるから、算哲の没後には徐々にお寺としての格式も備えていったのだろう。そして、貞享年間に現在の本堂が建立されたことは先に触れたとおりである。また、客殿は本堂より少し遅れて享保年間(1716~1736)に建立されている。

土御門家との交流

ところで、渋川春海は改暦の準備を進めるにあたり、朝廷側の陰陽頭だった土御門泰福(やすとみ)と深い交流があったと知られる。

土御門家の屋敷は八条御前にあった。龍岸寺からは、西に1キロ余りである。いまは屋敷跡が円光寺になっている。その円光寺から御前通りを少し北にいくと、通りの向かい側に、土御門家の菩提寺である梅林寺がある。円光寺には渾天儀(星の位置を図る器具)の礎石が、また、梅林寺には圭表(大表土台。太陽の南中高度を測定して一年の長さを決定する器具)の礎石が残る。いずれもこの地が江戸時代の天文台だったことを示す遺物である。

渋川春海はおそらく、八条通りを西に進み、豊臣秀吉が作った御土居の土手を越えて、土御門家を訪ねていたのだろう。
現在は、JR貨物の操車場があるため、春海の歩いたルートをそのまま進むことはできない。しかし、龍岸寺から西に進んで梅小路公園へと遊びに行くときには、自分の姿を春海に重ね合わせてみてはどうだろう。七条通をさらに西に行き、天文台があったあたりまで、散策してみるのもいい。南下して八条通を戻ってくれば、清和源氏出生の宮である六孫王神社にもお参りできる。大人の足ならぐるっと巡って40分程度だろう。

謝辞

本稿執筆にあたり、冨田良雄先生(元京都大学理学研究科助教)には、渋川春海の業績および土御門家との交流について、また、太田俊明師(梅林寺副住職)からは、土御門家の歴史について、ご教示いただきました。
御礼申し上げます。

(文・龍岸寺住職 池口龍法/2018年3月発行の「ファン通信」vol.2より転載)