お寺の日々シングルファザー住職の育児日記住職の新しいお寺づくり

波乱の迎春劇

波乱の迎春劇

新年おめでとうございます。

昨年は、知恩院の除夜の鐘に9年ぶりに「ゆく年くる年」の生中継が入ることになったので、その対応のために「池口さんも現場入ってもらえると助かります」と出動要請。「いつもは何してるんですか?」と聞かれたときに「『ガキの使い』見てます」とうっかり答えたら「じゃあ来てください」と逃げられない流れに。

思い返せば除夜の鐘の現場に立つのは数年ぶり。ここしばらくは、龍岸寺の新春準備で忙しいのと、子供が小さいことを理由に、「ガキの使い」を見ながら新春準備しながらの年越しが恒例になっていました。ひどい年には、あらかじめ子供たちが棒を用意していて、私がテレビの前で笑ったらシバかれたことも。

ただ、数万人規模の人出がある知恩院の除夜の鐘。そのスタッフで入るのは、シンパパ住職にはそんな簡単なことではなくて。ご参詣の方の入場開始が8時で、衝き始めが10時40分、衝き終わるのが翌0時30分。撤収終わるのが2時とか3時とか。

そして、元旦には早朝から檀家さんが龍岸寺にお参りに来られるんですよね。まあ私一人だけの話なら睡眠時間削ればすむ話なんですけど、そこに子供の世話まで入るとさすがに厳しい。

だから、単純にサボってたわけじゃないんですけれど、とはいえ、「ガキの使い」を見てると、同じ時間帯に除夜の鐘ついてるお坊さんたちには申し訳ない思いを抱えていましたから、昨年末は多少の無理を押しても現場に復帰しようかと。

ということで、 新春準備は前倒しで進め、大晦日の夜は知恩院の除夜の鐘に向かえるように努めてきたのですが、なんと29日夜に娘が発熱。まあゆっくり休ませたら下がるだろうと思い、翌日は朝も起こさずほったらかしにしてたらずっと起きてこなくて。昼ぐらいになって熱を測ってみたら、39.5度。

まじかー。

ほぼインフル確定じゃん。もう小児科休みだし、断定はできないけど。除夜の鐘スタッフをいまさら断れないし、疲れ切った体で看病してたら正月早々に僕までインフル。そんな未来がありありと想像できてしまいました。

1月9日には東京でトークイベント控えてるのに ……。

こういうとき、妻や同居の両親がいたら、大事をとって私を隔離してくれることもあっただろうに。 インフルみたいな感染性の高い病気って、身内以外に頼れないんですよね。 シンパパの暮らしでは、当然私がやるしかない。いやー孤独感。罹患覚悟の看病に突入。特攻隊の気分……。

そんな絶望感に包まれながら、翌31日朝に娘の額に私の額を当ててみたら、あれ平熱?という程度。体温計で測っても、36.4度。インフルの予防接種を受けていたのがよかったのか、あるいはインフルじゃなかったのか。ともかくもよかった。

と、一息ついていた早々のお昼過ぎ。今度はお寺の電話が鳴り、「先ほど亡くなりました」と檀家さん。

「すみません、今すぐおうかがいして枕経のおつとめをするのが本義なのですが、なにぶん除夜の鐘がありまして …… 明日も年始早々に初詣の檀家さんがお越しになられますので……」と事情説明する私。

枕経はお通夜の前に執り行うことで了解をいただきました。でも、1月1日に通夜。2日に葬儀。もともと睡眠をろくにとれないぐらいのハードスケジュールだったのに、戒名考えたり、位牌を書いたり、衣帯を準備したりが加わり、さらに超過密に。

なんという大波乱。

全部やり通せるのか?

という不安もよぎったけれど、 除夜の鐘も、年始のお参りも、葬儀も、お寺があってこそ成り立つもの。 求められているのは、やはり幸せなこと――と心を奮い立たせて、ギアをトップスピードに。

早めに年越しそばをゆでて一緒に夕食をとり、お風呂に入るように促し、洗濯ものを洗濯機に放り込んでスタートボタンを押し、「紅白見ててもいいし、ガキの使い見ててもいいし、仲良く過ごしててね。病み上がりだし早めに寝るんだよ」と言い残して知恩院へ。

ちなみに、「スター坊主めくり」の31日担当は私。発売された11月には31日がないので登場できず、大みそかでようやく登場するので、なにかしらツイートしようと目論んでたんですけど、知恩院へ向かう車中でふと思い出したときには、時すでに遅しでした。悔しいので年始早々にカレンダー巻き戻して撮影した写真を以下に貼り付けて供養。

それはともかく、ひさしぶりの除夜の鐘はやはり荘厳そのもの。今年は「除夜の鐘が近所迷惑」だという話題がありました。まあ、近所に幼稚園や保育園ができても「子供の声がうるさい」という苦情が来たりする時代です。「お寺の鐘の音、木魚の音がうるさい」という人もきっと出てくるだろうなと思ってましたけど、やっぱり悲しいですね。

臨済宗の細川晋舗さんが、坐禅とは句読点のようなものとよくおっしゃっています。句読点自体に意味はないし、句読点がなくても文章は読めます。でも極めて読みにくい。で、坐禅も同じだと。坐禅がなくても生きていけるけど、坐禅をして心を整える時間を持てると、人生にメリハリがついてうまく生きられるようになるわけです。この話は、私も共著で参加した『VS仏教』にも書かれてますのでよかったらお買い求めください。

除夜の鐘、そして初詣でもやはり同じ。こういう仏事がなくても別に生きていけるんです。でも、ダラダラ365日過ごすのと、四季折々にお寺や神社にお参りして人生に句読点を打つのと、どっちが素晴らしいか。軍配は明らかに後者です。素晴らしい智慧だと思います。

かくいう私も、これまで子育てで忙しかったことを理由に除夜の鐘をサボってました。去年は「ゆく年くる年」のおかげで現場に入れて句読点を打てたなぁと。忙しい時にこそ、お寺参りして呼吸を整えるべきなんですよね。

そんなことを思いながら除夜の鐘スタッフとして年を越し、撤収作業は早々に切り上げさせてもらって、帰途につきました。それでもお寺に戻ったのが2時ごろ。

洗濯物を干したり、葬儀の準備したり、考え切れてなかった新春用の掲示板の言葉考えたり……で寝たのは4時でした。掲示板の言葉はバズ寄りではなく、無難な感じでまとめてしまいましたが、まあそういうときもあります。

そして元旦は早朝から檀家さんがお寺参りに。新しい年を迎えられたのはご先祖がいつも守ってくださってるおかげなのです。疲れ切っている表情を見せないように笑顔を振り絞り、檀家さんと「おめでとうございます」とあいさつをし続けること数時間。夕方、少しだけ仮眠をとって、お通夜の読経できるぐらいには回復。

で、式場について、お通夜前に控室でスタンバイしてるときにふとLINEが鳴ったのでスマホ見たら……。

いや、確かに「迎春用の画像欲しい」って言いましたけど、なんで、てら*ぱるむすのほうはクールに決まってるのに、私だけバラエティ路線なんでしょう(涙)

一瞬、ネットプリントにゴーサイン出しちゃいそうになりましたが、たぶん誰も欲しくないので思いとどまりました。

お通夜前の不謹慎なひとときでしたけど、思いがけず笑ったおかげで、忙しすぎて凝り固まっていた体が少しほぐれました。 ああ、こういう句読点の打ち方もあるのかと。やっぱり、お寺はお葬式だけじゃなく、エンタメも含めて幅広く人の生き方に寄り添っていくべきだなぁと感じました。

ということで、龍岸寺が皆様の心のよりどころになるように、つとめ励んでいこうと思った年末年始でした。

本年もどうぞよろしくお願いします。