『唯識三十頌』現代ロックバージョン(後編)

あらかじめ前編を読んだうえでお読みください。前編はこちらに掲載しています。

(1) 思考の幻にさまよう私たちの姿について

これまで見てきたところをまとめると

  • (a) 迷いの現実:私たちは思考のフィルターを通して見た幻をリアルだと思い込む。
  • (b) 迷いの原因:その幻は自分自身の趣味嗜好が投影されてできているにすぎない。
  • (c) 迷いからの解放:思考のフィルターから解放されればおのずからリアルに捉えられる。

という三つのことわりになる。

詳しく読む(1) 三つのことわり

漢訳書き下し

彼彼ひひ遍計へんげりて種種の物を遍計す。 此の遍計所執しょしゅう自性じしょうは有るところ無し。 依他起えたきの自性の分別ふんべつは縁にしょうぜらる。 円成実えんじょうじつかれにおいて常に前のを遠離おんりせる性なり。 故にこれ依他えたとはにも非ず不異ふいにも非ず。 無常等の性の如し。 此を見ずしてかれをみるものには非ず。

現代ロックバージョン

かくして三つのことわりが成立することになります。

遍計所執性へんげしょしゅうしょう:思考のなかのイメージは世界や自分自身を好き勝手に
思い描いている(遍計)幻ですから
本質(自性)としてはそのとおりには存在しないのです。

依他起性えたきしょう:私たちはさまざまな精神作用や自我意識が原因(縁)となって
世界や自分自身を思い描いている(分別)にすぎません。

円成実性えんじょうじつしょう:したがって仏教において目指すものは
思考の幻を成り立たせるこれら原因を常に離れて
あるがままの完全(円成実)なる境地に入っていくことなのです。

あらゆるものは移ろいゆきますが(無常)
移ろいゆくということわりは不変です。
同じようにあらゆる迷いはたえず生み出されていきますが(依他起)
迷いが生み出されていくということわりは迷いを離れています(円成実)。
依他起性と円成実性は異なる性質のものでありますが(不異にも非ず)
完全に異なるとも言い切れないのです(異にも非ず)。

たとえば暗闇のなかで蛇だと思ったものが
灯りをつけてみると実は縄だったと気づくように
迷いの奥底にある真実(円成実)に照らされたときにはじめて
迷いを生み出すことわり(依他起)を知るでしょう。

(2) ところで、これらのことわりは以下のごとくにも理解される。

  • (a’) 迷いの現実:思考のなかの幻はリアルではない。
  • (b’) 迷いの原因:私たちのフィルターなくしてひとりでには幻は生じない。
  • (c’) 迷いからの解放:あるがままにこの世に処するときには何ものにもとらわれない。

したがって、これらのことわりは、諸法無我、
すなわち、あらゆるものには自我と言われるような不変の実体は存在しない
という本質を理論的に理解して実践していくための枠組みなのである。

詳しく読む(2) 実在へのとらわれを離れる

漢訳書き下し

即ちの三しょうに依りての三無性むしょうを立つ。 故に仏、密意をもって一切の法は無性なりと説きたもう。 初のには即ちそう無性をいう。次のには無自然むじねんの性をいう。 後のには前の所執しょしゅう我法がほう遠離おんりせるに由る性をいう。 此れは諸法の勝義しょうぎなり。または即ち是れ真如しんにょなり。 常如じょうにょにして其の性たるが故に即ち唯識ゆいしき実性じっしょうなり。

現代ロックバージョン

先に三つのことわりについて説きました。それはすなわち、

  • (1) 遍計所執性 私たちは思考のなかの幻にとらわれて生きています。
  • (2) 依他起性 その幻は自我意識にとらわれて世界と自分自身を見るがゆえに生み出されます。
  • (3) 円成実性 思考の幻を生み出す原因を離れればおのずからそこに平穏な境地があります。

見方を変えたときにはこれらのことわりは
あらゆるものは実体を持たないことを三つの観点から示すものでもあります。

  • (1) 相無自性 思考のなかの幻は実体をもちません(相無性)。
  • (2) 生無自性 世界(法)と自分自身(我)は自我意識という原因なくしてひとりでには存在しません(無自然の性)。
  • (3) 勝義無自性 あるがままにこの世に処する境地においては
    世界と自分自身へのとらわれを完全に離れています。

したがって、この三つのことわりは、仏教がその最初の頃から説いてきた諸法無我、
すなわちあらゆるものは無我であり実体を持たない(無性)ことを
少し違ったかたちで示しているにすぎないのです。
いま私が述べている学説はお釈迦さまの教えに違背するものではありません。

だからこれはまさしくあらゆるものに通底する正しいことわり(勝義)であり
同時にまたあるがままの姿(真如)でもあります。

私たちが思考へのとらわれを離れてあるがままに処することを望むならば
これらのことわりは私たちのあらゆる日常を貫く道しるべとなります。
またその本質(実性)を端的にいえばすべては思考にすぎない(唯識)ということです。

(3) 思考の幻にさまよう姿に気づいた私たちが幻へのとらわれを離れてあるがままの境地をめざそうと願うのはたやすくない。

  • 第一段階:これらのことわりを理解してはいるものの自分の姿を改める気には至らない。
  • 第二段階:思考のなかの幻から解放されたいと願って努力を重ねていく。
  • 第三段階:幻から解放される瞬間がおとずれてその瞬間にすべてのことわりを体感する。
    しかし、幸せな瞬間は長く続かず、すべてのことわりを体得するには至らない。
  • 第四段階:正しいことわりを体感していよいよ自分自身の姿を徹底して改善していく。
  • 第五段階:修行の結果、自らのあらゆる迷いを離れるとともに人々を教え導く法を体現する。

という具合に順を追って歩みを進めていくとよい。
そうすれば着実に自分自身のあり方を改めていくことができるのである。

詳しく読む(3) 五つの修行のステージ

漢訳書き下し

いまいまだ識を起こして唯識ゆいしきしょうじゅうせんと求めざるに至るまでは 二取にしゅ随眠ずいめんおいなお未だふくし滅することあたわず。 現前げんぜん少物しょうもつを立ててれ唯識の性なりとえり。 有所得うしょとくなるをもってのゆえに実に唯識に住するにはあらず。 もしし時に所縁しょえんに於て智すべて無所得むしょとくなれば の時に唯識に住す。二取のそうを離れたるが故なり。 無得むとくなり。不思議なり。是れ出世間智しゅっせけんちなり。 二の麁重そじゅうしゃしたるが故に便すなわ転依てんね証得しょうとくす。 れは即ち無漏界むろかいなり。不思議なり。善なり。常なり。 安楽なり。解脱身げだつしんなり。大牟尼だいむになるを法と名づく。

現代ロックバージョン

唯識を体得して幻から解き放たれていくステップは下記の通りです。

第1ステージ(資糧位)

まずはすべては思考の産物にすぎない(唯識)ことをを理解しましょう。
とはいえ理解することと完全に体得することは別物です。
この段階では世界があって自分がいる(二取)という思考を
潜在的に持っている(随眠)ままです。

修行の第2ステージ(加行位)

すべては思考の産物にすぎないということの理解が進み
これを体得しようという気力に満ちて修行にはげみます。
しかしながら思考のなかにはあいかわらず
自我意識によって生み出された幻への
執着が依然として残っている(有所得)状態です。

修行の第3ステージ(通達位)

修行を重ねていくと思考の対象(所縁)となるものを
理解(智)しようという執着が完全になくなる(無所得)瞬間が訪れます。
このときにはじめて思考する対象も思考する自分もなくなり
すべて思考の産物にすぎないということわりを体感するのです。

修行の第4ステージ(修習位)

先のステージで正しいことわりを体感することができた瞬間は
執着を完全にはなれた(無得)不可思議(不思議)な境地に他なりません。
この瞬間に世俗的な知見とはまるで違う知の地平(出世間智)が開かれてきます。
しかしながらはるか昔からあやまった考えとくもった心を持って生きてきたことの影響が
私たちの奥底に習慣化されて根強く残っています。
これらの二種の障害(麁重)をたむまぬ努力の果てに絶やしてしまうとき
私たちの存在のありかたは根本的に変わります(転依)。

修行の第5ステージ(究竟位)

私たちのありかたが根本的にかつ永続的に変わったとき
そこにあるのは迷いなき世界(無漏界)であり
言語を超えた不可思議な世界(不思議)であり
極めて安穏な(善)であり
生滅のことわりを離れて(常)おり
悩むことなく寂静(安楽)なる世界です。
二種の障害のうちくもった心をすべて断ち切って
解脱して自由になった境地(解脱身)を享受するだけでも
平穏な境地に至れるかもしれません。
しかし大乗仏教はあらゆる人々と平穏に生きるためのものですから
正しいことわりを知り尽くして迷える人々を教え導こうと志してください。
それが聖者(大牟尼)のごとく世界に遍在する真理(法)として生きることです。