数々の著書を遺したインドの仏教思想家 世親せしん。その思想の集大成ともいわれるのが『唯識三十頌ゆいしきさんじゅうじゅ』です。何度読んでみても味わいのある名著ですが、専門用語がたくさん登場するため初心者には難解なのも事実。そこで、「世親が現代に生きていたらこんな言葉で語ったのではないか」という翻訳を試みました。

世親が生きた時代と現代とでは、まるで生きる環境が違います。世親の時代にはインドにおいても太陽が地球の周りをまわる天動説が信じられていましたし、世界の始まりはビッグバンではなくて人々の「業(カルマ)」によるのだと説かれていました。逐語的な翻訳と解説を学んで、当時の世界観を知っていくのがオーソドックスな学び方かもしれませんが、世親がタイムマシンで現代にやってきて「翻訳コンニャク」を食べ、私たちの苦しみを克服するメッセージを語ってくれたなら、仏典の言葉は一気に心に響くものになるでしょう。以下の翻訳は、そういうところを目指して書いています。世親の真意にどこまで迫れるかわかりませんが、できるところまでやってみますので、よろしければお付き合いください。

逐語訳や専門用語の解説をお望みの方は、ググっていただければ、他のサイトに載っていますのでそちらをご参照ください。サンスクリット原典からの翻訳を利用したい方は『大乗仏典〈15〉世親論集 』(中公文庫)をお薦めしておきます。

唯識三十頌ゆいしきさんじゅうじゅ世親せしん菩薩ぼさつ造 現代ロックバージョン(前編)

(1) 私たちは思考(しき)するからさまよう。
この世(ほう)は思い通りにならない。
本当の自分()なんてどこにもない。
いま、この思考の幻から抜け出そう。

詳しく読む(1) 思考の幻を歩む私たち
<漢訳書き下し>
に由りてほうありと説く。種種のそう転ずること有り。
かれしき所変しょへんに依る。

<現代ロックバージョン>
理想の人生ってなんだろう。
幸せな生活ってなんだろう。
その答えは一人一人によって異なります。
同じ時代に同じ地球上に生きていている私たちですが
その見え方は人それぞれです。

自分らしさってなんだろう。
本当の自分ってなんだろう。
考えてみてもとらえどころのないものだし
考えれば考えるほどわからなくもなります。

ありのままに世界(法)を見ることができず
ありのままに自分(我)を受け入れることができず
思考(識)がつくりだす幻のなかをさまよい歩く。
悲しいかなそれが私たちの姿なのです。

(2) 人はなぜ思考して苦しむのか。その理由は3つある。
感覚器官がたえず働く(了別境りょうべつきょう)から。
自我意識によって世界と自分を眺める(思量しりょう)から。
そもそも私たちは思考する存在(異熟いじゅく)だから。

詳しく読む(2) 思考の3つのレイヤー

<漢訳書き下し>
これ能変のうへんただ三つのみなり。
わく異熟いじゅく思量しりょうと、及び了別境りょうべつきょうとのしきなり。

<現代ロックバージョン>
なぜ私たちは思考するのでしょう。

この問いに対する答えを見つけることはおそらく不可能です。
はるか過去にどんな因縁があったのか知る由もありませんが
私たちはこの世にいのちある限りともかくも思考し続けます。
いのちがつきて生まれ変わった後もやはり同じことでしょう(異熟)。

しかしながら思考するときには私たちの迷いの心が常につきまといます(思量)。

この迷いの心に染められた思考によって
感覚器官からたえず入ってくる情報をあつかうから
正しく世界や自分の姿を見つめているつもりでも
実際には迷いの心によってゆがめられた虚像を見てしまいます(了別境)。

これが私たちの思考というものの姿なのです。

(3) 宇宙のすべてを創造し
その宇宙のなかに心を誕生させた
私たち人間には解明しようのない根源的な力がある。
これをアーラヤ識(阿頼耶識あらやしき)と呼ぶ。
アーラヤ識は宇宙の過去の歴史をすべて包摂し
たえず脈動しては新しい心を生み出し(一切種いっさいしゅ)。
その心に思考する力を与え続ける。

詳しく読む(3) 人間とは思考する存在である

<漢訳書き下し>
初めは阿頼耶識あらやしきなり。異熟いじゅくなり。一切種いっさいしゅなり。
不可知の執受しゅうじゅしょりょうなり。常にそくと、
作意さいじゅそうと相応す。ただ捨受しゃじゅのみなり。
是れ無覆無記むぶくむきなり。触等もかくごとし。
つねに転ずること暴流ぼうるの如し。阿羅漢あらかんの位に捨す。

<現代ロックバージョン>
なぜ思考するのかということをよくよく見つめてみると
私たちがそもそも思考する存在だからという
動かすことのできない事実につきあたります。
このような私たちの存在の基調(阿頼耶)となるありかたを
アーラヤ識(阿頼耶識)と呼ぶのです。

どういう因縁からかわかりませんが
私たちはともかくも思考する生き物であり(異熟)
そのことが種となって私たちのあらゆる迷いが
今日もすくすくと育っていきます(一切種)。

私たちに思考する力が備わっていなければ
なにもあれこれと思い迷うことがないのですが
どういうわけか私たちには思考する機能(執受)があって
私たちの前には思考の対象となる世界(処)があって
私たちは世界をとらえられる(了)ようになっています。

目や耳などの感覚器官はたえず色や音などに反応し(触)
その色や音に思いを向けることができ(作意)
そこからなにかしらの感情が起こり(受)
言葉や概念にあてはめて理解しようとし(想)
意思をもって行動しようとする(思)のです。

私たちがこのようないとなみを繰り返すことそれ自体は
苦楽の感覚を離れた平静な性質のことであり(捨)
倫理的な善悪をはなれているし
けがれによって覆われているわけでもない(無覆無記)のですが
しかしこのような思考する能力を持っているがゆえに
私たちの迷いが起こってきます。

究極的に迷いを離れた境地(阿羅漢)に達するまで
私たちは思考することと向き合い続けていかねばならないのです。

(4) アーラヤ識によって生み出された私たちの心は
それ自体としてはけがれたものではない(無覆無記むぶくむき)。
しかしながら私たちは諸行無常のことわりから目を背け
自分自身や世界への執着をもって思いめぐらす(思量しりょう)から
瞑想によっていわゆる無の境地(滅定めつじょう)に達するなどのことがないかぎり
けがれをともなった自我意識(末那まな)に追い立てられて
日々を過ごすことになるのである。

詳しく読む(4) 自我意識とはなにか

<漢訳書き下し>
次は第二能変のうへんなり。この識を末那まなと名づく。
かれに依りて転じて彼を縁ず。思量するをもってしょうともそうとも為す。
四の煩悩と常にともなり。謂く我癡がち我見がけん
ならびに我慢がまん我愛があいとなり。及び余のそく等と倶なり。
有覆無記うぶくむきおさむ。 所生しょしょうに随ってせらる。
阿羅漢あらかん滅定めつじょう出世道しゅっせどうとには有ること無し。

<現代ロックバージョン>
どういうわけか私たちには思考する機能があって
私たちの前には思考の対象となる世界がある。
いかにも思考しやすい土壌があるところに
いわゆる自我意識(末那)が芽生えてきます。
思考の幻を生み出す(能変)第二の原因です。

自我意識はあれこれと思いめぐらす(思量)ことを
その本質(性)としています。
しかし常に四つの煩悩に駆り立てられて
感覚器官を働かせ(触)たりしているから
自分自身や世界をありのままに見ているつもりでありながら
結果的に色眼鏡にうつった像(相)を見ているのです。

四つの煩悩とは
あらゆるものは移ろいゆくという諸行無常のことわりは
私たち自身にももちろんあてはまるという
目を背けたくなる事実からつい目を背け(我癡)
むしろ自分自身へのとらわれや所有欲を芽生えさせ(我見)
美しくありたいとか良いものを持ちたいという欲求を持ち(我慢)
自分自身への執着をどんどん深めていく(我愛)ことです。

私たちの心がどれぐらい安らかであるかによって(所生に随って)
これら煩悩の燃え上がり方も変わってきますが
いずれにしても自我意識はたえず汚れています(有覆無記)。

究極的に迷いを離れた境地(阿羅漢)に至るか
瞑想によっていわゆる無の境地(滅定)に入るか
この世ならぬ清らかな修行の道(出世道)を歩むか
――厳しい決意のなかに生きる以外に
この自我意識の炎をしずめるすべはないのです。

(5) 自我意識は眼など五つの感覚器官と脳を駆使して
対象(きょう)をとらえようとする。
そして対象をとらえるときには精神作用をともなう。

詳しく読む(5) 感覚器官も幻を生む

<書き下し>
次の第三能変のうへん差別しゃべつなること六種あり。
きょうりょうするをもってしょうともそうとも為す。 善と不善と倶非くひとなり。

<現代ロックバージョン>
執着に駆り立てられた自我意識の炎を消すことのないまま
私たちは六つの感覚器官を働かせて生きています。
これが思考の幻を生み出す(能変)第三の原因です。

眼によって色や形を把握し
耳によって音を聞き分け
鼻によって匂いを知り
舌によって味を感じ
手などによって感触をとらえ
脳によって存在するもの全般を考える。
――これら六つの感覚器官は
それぞれの対象(境)を把握(了)することを
その本質(性)としていて
感覚器官から得られる像(相)をもとに
私たちは思考するのです。

感覚器官は対象に関する情報を正確につかむと思い込みがちですが
客観的な対象の把握など本当にありえるでしょうか。
たとえば「僧侶」という存在をイメージするときには
これまでの「僧侶」とのかかわりによってその見え方は変わってきます。
自分の日々の生活を導いてくれる師に対して敬愛の念を抱く人もいるでしょう。
しかし敬愛の念を抱くどころか憎らしく思う人もいるでしょう。

善悪の感情やあるいは善悪いずれでもない(倶非)心のはたらきをともなって
感覚器官を用いているから対象を正確につかむことはできるはずもなく
好きなようにイメージを膨らませているのが本当のところなのです。

(6) 精神作用(心所しんじょ)にはたとえば善悪の感情がある。
悪なる感情というのは
手に入れた金銭や名誉などに喜びふけり(とん
不愉快な想いを抱いてつい他者を憎み(じん
穏やかに生きていくために思索するすべを知らない()などであり
この世の苦しみを増大させるものである。
これら悪なる感情をとどめて
安楽な世界を導いていくのが善なる感情である。
あるいはまた世俗的な善悪の価値判断を超えて
ひたすら道を究めていくときの特別な精神作用(別境べっきょう)がある。

詳しく読む(6) さまざまな精神作用

<漢訳書き下し>
此の心所しんじょ遍行へんぎょう別境べっきょうと善と煩悩と
ずい煩悩と不定ふじょうとなり。皆、三のじゅと相応す。
初の遍行というはそく等なり。次の別境というはいわく欲と
勝解しょうげと念とじょうとなり。所縁しょえんは不同なるをもってなり。
善というは謂く信とざん無貧むとん等の三こん
ごんと安と不放逸と行捨ぎょうしゃと及び不害となり。
煩悩というは謂くとんじんまん悪見あっけんとなり。
ずい煩悩というは謂く忿ふんこんふくと悩としつけん
おうてんと害ときょう無慚むざんと及びむき愧と
掉挙じょうこ惛沈こんじん不信ふしんならびに懈怠けたい
放逸ほういつと及び失念と散乱と不正知ふしょうちとなり。
不定ふじょうというは謂くと眠とじんとぞ。二に各二あり。

<現代ロックバージョン>
私たちは善悪の感情などさまざまな精神作用(心所)をともないながら
六つの感覚器官をもちいて対象をとらえ
快、不快、あるいは快不快のいずれでもないと感受(三受)しています。

このことについて少し詳しく見てみましょう。

精神作用には六種があります。

先にもいちど触れていますが
まず1つ目には私たちが思考する存在であるかぎり
ずっとともなっているもの(遍行)です。

つまり目や耳などの感覚器官はたえず色や音などに反応し(触)
その色や音に思いを向けることができ(作意)
そこからなにかしらの感覚が起こり(受)
言葉や概念にあてはめて理解しようとし(想)
意思をもって行動しようとする(思)のです。

2つ目には迷いの日常において対象(所縁)としているものではなく
迷いなき世界へと向かうための特別な対象なものを
とらえようとしたときの精神作用(別境)です。

迷いなき世界に向かうためには3つの精神が求められます。
未来にはるかな目標を立ててそれを実現しようと願って精進し(欲)
先師や経典の言葉についてひとつずつ確信をえて(勝解)
意識を散乱させることなくこれまでの習熟に思いをとどめる(念)ことです。
またこれら3つの感情が深められていくとおのずから
意識が統一された三昧の状態(定)がえられ
明晰に物事を見極められるようになります(慧)。

3つ目には世俗的な暮らしのなかの善なる感情で
迷いなき世界へと向かう精神作用(別境)を導く因となるものです。

穏やかで静かな状態になり(信)
みずからを省みて反省し(慚)
他者からの評判をおそれて罪過を恥じらい(愧)
金銭や名誉などに執着せず(無貪)
危害を加えてくるものにも慈しみを注ぎ(無瞋)
正しいことわりを受けとめ(無痴)
これら善なる感情のもとに向上心を抱き(勤)
身心が柔軟にはたらくようにたもち(安)
散漫にならず集中する(不放逸)とともに
とらわれを離れて静かな状態にいたり(行捨)
生きとし生けるものに慈愛をそそぐ(不殺生)
――これら十一種が善なる感情なのです。

一方で世俗的な日常のなかには悪なる感情もわきあがってきます。
4つ目にあげられるのは六種の根本的な煩悩です。

手に入れた金銭や名誉などに喜びふけり(貪)
不愉快な想いを抱いてつい他者を憎み(瞋)
穏やかに生きていくために思索するすべを知らず(癡)
他愛もないはずの自分にうぬぼれを抱き(慢)
正しいことわりを疑って雑念にとらわれ(疑)
ありもしない自分らしさにこだわる(悪見)。
――これら六種が悪なる感情なのです。

5つ目にはこれら根本的な煩悩につきまとう多くの感情(随煩悩)です。

損失をこうむることにいらだち(忿)
許す気になれず怒り続け(恨)
悪行をしても素直に認めず(覆)
激しい言葉で罵倒し(悩)
自分よりも優れている人を妬み(嫉)
施しの感情を持たず(慳)
他者を欺いて自分の過ちを隠し(誑)
外見の見せかけだけをつくろって(諂)
生き物を殺したり危害を加えたりし(害)
自分自身の境遇におごりたかぶり(憍)
みずから反省する気持ちを持たず(無慚)
周囲を気にして恥じらうことなく(無愧)
意識がたかぶってそわそわし(掉挙)
意識がぼんやりして理解力を欠き(惛沈)
正しいことわりを希求しようとせず(不信)
気力なく怠けてしまい(懈怠)
正しく実践する意欲を持たず(放逸)
集中力を欠いてしまい(失念)
欲望にかられて意識が乱れ(散乱)
正しくものごとを知らずに行動してしまう(不正知)。
――これら二十種の感情が煩悩に付随して起こるのです。

最後に6つ目は善でも悪でもありうる精神作用(不定)です。

自分がなした行為にたいして後悔を抱く(悔)ときや
眠気におそわれて意識が働かなくなる(眠)ときや
浅い次元での思考(尋)や深い次元での思考(伺)を行うときの精神は
それが煩悩につきまとわれているうかどうかによって
善とも悪ともいえます。

私たちはこのようにさまざまな精神作用をともなっているのです。

(7) 私たちは五感のうちその時々に必要な感覚のみを用いる。
しかし脳だけは深い瞑想(無心の二定にじょう)にあるときや
睡眠中などをのぞいてたえず働く。

詳しく読む(7) 脳は常に働く

<漢訳書き下し>
根本識こんぽんしきに依止す。五識は縁に随ってげん
或るときにはともなり。或るときには倶ならず。濤波とうはの水に依るが如し。
意識は常に現起す。無想天むそうてんに生じたると
及び無心の二定にじょうと睡眠と悶絶とを除く。

<現代ロックバージョン>
川の水面に石を投げてみると波がたつ。
たくさん投げるとそれだけ波がたつ。
しかし川の水はとうとうと流れていく。
思考する存在(根本識)としてある私たちは
川の水面の波のごとくに
五感から情報(五識)を刻々と受け取って
それを脳(意識)に伝達しています。
五感が働いていないときにも脳は常に働いています。

脳の働きを持たない存在(無想天)として生まれたのでないかぎり
瞑想によって脳の働きに振り回されなくなったときや
さらに瞑想を深めて自我意識へのとらわれもなくして
無の境地(滅尽定)に入ったとき(無心の二定=無想定・滅尽定)や
深い眠りについているとき(睡眠)や
気を失うほど苦しんでいるとき(悶絶)を除けば
脳は常に働いています。

(8) 無の境地に入ったなどをのぞけば
常に五感の知覚と脳の働きによって情報を得て
それをさまざま思いめぐらしつづけているのだから
自分自身もこの世界もすべて思考の産物(一切唯識いっさいゆいしき)にすぎない。
しかし現実にはその思考の産物への執着から離れられず
善悪などの行為(諸業しょごう)をなし続けるから
私たち自身やこの世界の未来を生み出す力となり(習気じっけ
その力はいつしか縁がととのったときに苦楽の果を結ぶ(異熟いじゅく)。

詳しく読む(8) すべては思考の産物だと知る

<書き下し>
諸識しょしき転変てんぺんして分別ふんべつたり。所分別しょふんべつたり。
これりてかれは皆無し。故に一切唯識いっさいゆいしきのみなり。
一切種識いっさいしゅしきかくごとく是の如くへんずるに由り
展転力てんでんりきもっての故に彼彼ひひの分別生ず。
諸業しょごう習気じっけ二取にしゅの習気とともなるに由りて
前の異熟いじゅく既に尽くればの異熟を生ず。

<現代ロックバージョン>
すでに述べたとおりですが
そもそも私たちは思考する存在であり
自我意識によって世界と自分を眺め
感覚器官がたえず働くことによって
思考(識)が生成しては変化して(転変)いきます。

思考の中においては私たち自身のイメージ(分別)が
世界のイメージ(所分別)をとらえたつもりになっていますが
実際には思考が生み出したイメージ(分別)に執着しているにすぎません(一切唯識)。
私たち自身というものも世界というものも存在するとは言い切れないのです。

アーラヤ識という私たちのあらゆる迷いを生み出す源泉(一切種識)は
このように感覚器官の知覚や自我意識にたえざる変化をもたらします。
そして感覚器官の知覚や自我意識のはたらきによって
自分自身と世界(二取)にとらわれた私たちの行為(諸業)は
未来に対してなにかしらの影響力(習気)を与えますが
それは私たちのあずかり知らぬところで縁を結んでいくものであり
どのようにアーラヤ識という源泉から未来が熟成されてくる(異熟)かは
まったくわからないのです。

『唯識三十頌』現代ロックバージョン(後編)はこちら