誰もが口に出したことのあるであろう言葉「ナムアミダブツ」。となえやすさ、響きの心地よさなどもあいまって、この言葉は信心の有無を問わず多くの人々に浸透しています。しかし、その意味や、なぜとなえるのかということについては、あまり知られていないのではないでしょうか。

「ナムアミダブツってなんだ?」ということを真正面から論じた書物はたくさんあります。その古典の一つが法然上人(1133-1212)の主著『選択本願念仏集せんちゃくほんがんねんぶつしゅう』です。この書物は16章立てになっていて、体系的に「ナムアミダブツ」の理論がまとめられています。仏教に関心のある人にはぜひお読みいただきたい一冊ですが、書かれてから800年以上が経過した今日では、訳文を読んでみたところでその内容がすっと腑に落ちない人も多いことでしょう。

したがって、この書物が「ナムアミダブツ」を解説していく骨組みを可能なかぎり踏襲し、私なりの言葉で「ナムアミダブツってなんだ?」を解説したいと思います。あくまでも私の言葉による随想であり、原著の翻訳ではありません(かなりの超訳ではあるとしても)ので、その点ご留意ください。

なお、原著を読みたい方は、原文は『選択本願念仏集』(岩波文庫)に収められていますし、現代語訳については、『選択本願念仏集―法然の教え 』(角川ソフィア文庫)などがあります。

(1)聖道門あるいは極めきれない智慧の実践

日本の仏教には多くの宗派があります。宗派によって教えは異なるように見えますが、いずれにしても仏教であるかぎり理想とするのは「無我」です。これはすなわち、自分さえよければいいという「自我」を中心とした生き方を改めて、世界のなかに多くの生命体が共存するにはどう生きればよいのか、と視点を変えていくことに他なりません。

少し余談ですが、仏教といえば「心」の宗教だと言われることがあり、これに付随して、「心を整える」「心を手放す」ということがその教えだとされることがあります。「心をととのえる」「心を手放す」というのもまた「自我」を中心とした生き方を離れていくものですから、その意味においては「無我」を志向するものです。しかし、自分の心がととのえばそれでよしとするなら、突き詰めていえばそれは「自我」へのとらわれをいささか残していることになります。

日本で重んじられているのは大乗仏教ですが、大乗というのは地球全体、宇宙全体を「大きな乗り物」に見立てて、乗り物のなかのすべてとともに歩んでいこうという思想です。これに対して小乗仏教というのは、自分の心さえととのえばいい、という態度を大乗仏教のサイドから呼んだ蔑称です。教科書的に言えば、インドから東南アジア(スリランカやタイなど)に伝わったのが小乗仏教で、中国や日本に伝わったのが大乗仏教ですが、そう簡単に分類できるものではありません。大乗仏教に関する教えを学ぶにしても、神仏のご利益で良いパートナーと出会いたいという下心や、修行してビジネスで成功して出世したいというような欲望を抱いているなら、そのエゴイスティックな態度こそが小乗的なのです。そういう態度で大乗仏教を学んだとしてもおよそその本質は理解できないでしょう。大乗仏教に接するときには、できるかぎり意識を大きく持って、地球全体、宇宙全体が幸せであれと願いながら学びを深めてほしいと思います。

さて、仏教の基調となるこの「無我」の世界を求めていく方法を2つに分けて説いたのが、中国の道綽どうしゃく禅師(562-645)です。道綽禅師は著書『安楽集』において、その2つを「聖道門しょうどうもん」と「浄土門じょうどもん」という名前で呼んでいます。

そしてこのそれぞれを解説して、法然上人は、「聖道門の修行は、智恵を極めて生死を離れ、浄土門の修行は、愚痴に帰りて、極楽に生まると知るべし」(『法然上人絵伝』巻21)と端的に言っています。

大乗仏教では「智慧」と「慈悲」が「無我」へと進んでいくための両輪ですから、いま引用した法然上人の言葉によれば「聖道門=智慧」となります。

智慧というのは曇りない心で物事を正しく見極めることです。これは宗教的直観を磨いていくということもありますが、最初期の仏教経典『スッタニパータ』においてすでに苦しみが起こる法則性について言及した言葉が見られます。

苦しみを知らず、また苦しみの生起するもとを知らず、また苦しみのすべて残りなく滅びるところをも、また苦しみの消滅に達する道をも知らない人々――かれらは心の解脱を欠き、また智慧の解脱を欠く。かれらは(輪廻を)終滅させることができない。かれは実に生と老いとを受ける。
しかるに、苦しみを知り、また苦しみの生起するもとを知り、また苦しみのすべて残りなく滅びるところを知り、また苦しみの消滅に達する道を知った人々――かれらは、心の解脱を具現し、また智慧の解脱を具現する。かれらは(輪廻を)終滅させることができる。かれらは生と老いとを受けることがない。(『スッタニパータ』第2章)

これが後に有名な「四聖諦ししょうたい」として定式化されていくわけです。「四聖諦」のみならず、仏教が苦しみの世界から抜け出していくための多くの知見をもたらしてきたことは周知のことでしょうから、そのいちいちについて述べません。いまは、仏教が宗教的直観にもとづいて人を導くのみならず、法則性にもとづいてこの世を把握することを重んじてきたということを指摘するにとどめます。

法則性にもとづいてこの世を把握するといえば、今日ではそれを徹底的に行うのが科学の姿でしょう。往々にして宗教と科学は相容れないと言われていますが、少なくとも仏教に関するかぎりは、誤解だといえます。この世を物理的法則性にもとづいて把握する科学の営みは、私たちが智慧を極めていくことを助けるでしょう。しかし、この世の物理的な法則や、苦しみといかに処するかと言う精神的な法則について、ただ知識を習得するだけならそれは智慧とはいえません。仏教でいう「無我」をつきつめていくときには、自分がそもそもないわけですから、自分が世界を眺めているということはありませんし、この世の法則性を知るということもありません。自分がどうだとか他人がどうだとかいうことに捉われず、意識を大きく持って世界と一体となって、正しいことわりにもとづいて世界をよい方向へと導いていくという実践までを含めて、智慧を極めるというのです。

現代の文脈においてこれを語るなら、どうでしょうか。私たちは環境問題、人口問題、食糧問題などさまざまな問題を抱えていますから、これを徹底的に学べば、どうすればトラブルを回避して幸せな世の中が訪れるかという知見を得られます。その知見にもとづいて、世界中の人々をなんとか説得して、あらゆる人々が暮らしよい環境を作ろうと歩んでいこうと合意して努力していくのが、聖道門あるいは智慧の修行です。しかしながら、二酸化炭素の排出量一つとってみても、たとえば日本が率先して排出量を抑制するならその分だけ経済発展を制限することにつながり、経済的に豊かに暮らしたいと願う人々の反発を招きます。お釈迦さまのような人がカリスマ的な力を発揮して智慧という指針が世界全体で重んじられるようなことがあれば、智慧による合意形成が実現できるかもしれませんが、現実的にはなかなか果たせそうにありません。

道綽禅師もそして法然上人も、ご自身の生きられた時代はお釈迦さま在世の頃からはるかに歳月が経った末法の世であるがゆえに、智慧によって世界を導いていくことの厳しさを嘆きました。現代は道綽禅師や法然上人の時代からさらに年月が経っていますから、いっそう仏法の流布しがたい時代だともいえます。あるいは極論するなら、私たちが知る限りの人類の歴史を振り返ってみても、人智によって争いのない世界がもたらされることの実現可能性は、限りなくゼロに近いようにも思えるわけです。

それでも、智慧というもののわずかな可能性に賭けて生きる人がいるなら、それを否定すべきでないことは言うまでもありません。しかしながら、智慧によって生きていくことに絶望したとしても、それでも大乗仏教の精神によって手を取り合って歩んでいきたいと願う心情のほうは失われないでしょう。そこで、もう一つの慈悲という軸から歩めないか、ということが関心にあがってくるわけです。