おそらくは最も有名なお経『般若心経』。「空」の思想をコンパクトに説き示した経典として、多くの「般若経典」のなかでも一番よく読誦されてきました。岩波文庫にも和訳が収められていますし、Web上でも超訳を掲載したサイトなど多くの翻訳が読めます。

なかでも、近年注目を集めているのは、ニコニコ動画でボカロの歌に超訳された字幕がつけられた初音ミクアレンジ「般若心経ロック」です。この動画は2016年2月時点で110万回以上再生されています。翻訳字幕はわかりやい言葉で書かれていますし、心に響くのもなるほど頷けるところです。とはいえ、『般若心経』で説く「空」というのは大乗仏教において重んじられるのみならず、仏教の歴史全体に通底する思想です(初期の頃に「空」が説かれたわけではないにしても)。もう少し丁寧に超訳したほうが、この経典をイントロダクションとして仏教の多くの教えに触れていただけるのではないかと思い、以下の翻訳を試みました。

『般若心経』現代ロックバージョン

(1) よくよく考えてみたら(行深般若波羅蜜多時)
私の身体も心も様々なつながりのなかにある(照見五蘊皆空)。
そう知ったときにすごく楽になった(度一切苦厄)。

詳しく読む(1) 自分だけが生きているわけではない

<漢訳書き下し>
観自在菩薩かんじざいぼさつ深般若波羅蜜多じんはんにゃはらみったぎょうじし時、
五蘊皆空ごうんかいくうなりと照見しょうけんし、一切の苦厄くやくしたまえり。

<意訳>
観音菩薩(観自在菩薩)は
曇りない眼差し(深般若波羅蜜多)でこの世を眺めたとき
物も心も(五蘊)すべてつながりのなかにある(空)と知って(照見)
自分一人で苦しみを抱えようとする思いから解放されました(度)。

(2) 自分の身体だと思っているけれど
親のDNAを受け継いで自分の身体があるし
たくさんの命を食べて日々を生きている(色即是空空即是色)。
心だってそうだ。
自分が苛々しているとまわりも苛々する。
優しい言葉をかけると優しい言葉が返ってくる(受想行識亦復如是)。
あらゆるものはつながりのなかにある(是諸法空相)
限りある命だからいつかはこの世を去りゆくけれども
DNAも想い出も受け継がれていく。
自分一人が生きて死ぬのではない(不生不滅)。
自分がきよらかでありたいとか
けがれていたくないとかいう気持ちは
捨ててしまえばいい(不垢不浄)。
豊かになりたいとか
貧しければみすぼらしいとかいう気持ちも
捨ててしまえばいい(不増不減)。

詳しく読む(2) すべてはつながりのなかに

<漢訳書き下し>
舎利子しゃりしよ、しきくうに異ならず。空は色に異ならず。
色はすなわちこれ空なり。空はすなわちこれ色なり。
受想行識じゅそうぎょうしきもまたまたかくのごとし。
舎利子よ、この諸法しょほう空相くうそうにして、
しょうぜず、めっせず、あかつかず、きよからず、増さず、減らず。

<意訳>
舎利子よ、
形あるもの(色)はすべてつながりのなかにあります(空)。
つながることができるから世界は形成されているのです。
形なき世界においてもまた同様です。
感受(受)、表象(想)、意欲(行)、思惟(識)のはたらきによって
私たちの心は形成されているわけですが、
これらのはたらきは自分自身で思うようにコントロールできるわけではなく
さまざまな影響を受けながら日々の私たちの心があります。

すなわち、あらゆるもの(諸法)はバラバラに存在することはないのです(空相)。

ひとりでになにかが生じたり滅することもなければ
自分だけ汚れているとか美しいとかいうこともなく
自分だけ損失を被ったり恩恵を受けたりということもないのです。

(3) あらゆるものはつながりのなかにあると知れば
身体や心へのとらわれをすべて離れていく(是故空中無色無受想行識)。
ひとりでに迷いがなくなるから(無無明)
迷いたくないということも迷いだと気づく(無無明尽)。
あらゆる尊い人たちも(三世諸仏)
このように気づいたときに(依般若波羅蜜多故)
とらわれの世界から迷いなき世界へと入った(得阿耨多羅三藐三菩提)。

詳しく読む(3) 迷いの雲はひとりでに晴れる

<漢訳書き下し>
この故に空のなかには色もなく、受も想も行も識もなく、
げんぜつしんもなく、しきしょうこうそくほうもなし。
眼界げんかいもなく、乃至ないし意識界いしきかいもなし。
無明むみょうもなく、また無明の尽くることもなし。
乃至、老死もなく、また老死の尽くることもなし。
じゅうめつどうもなく、もなく、またとくもなし。
得るところなきをもっての故に。
菩提薩埵ぼだいさった般若波羅蜜多はんにゃはらみったに依るが故に、心に罣礙けいげなし。
罣礙なきが故に、恐怖くふあることなく、
一切の顛倒夢想てんどうむそう遠離おんりして涅槃ねはん究竟くきょうす。
三世さんぜの諸仏も般若波羅蜜多はんにゃはらみったに依るが故に、阿耨多羅三藐三菩提あのくたらさんみゃくさんぼだいを得たまえり。

<意訳>
すべてつながりのなかにある(空)と知ったときには
形ある世界(色)も形なき世界(受・想・行・識)も
好きな部分だけ切り取ってそこに執着してみたところで意味のないことだと気づきます。

あるいはまた、私たちの通常の生活のなかでは
眼から形ある世界(色)をとらえて視覚(眼界)をえて
耳から音(声)をとらえて聴覚をえて
鼻からにおい(香)をとらえて嗅覚をえて
舌で味を感じて味覚をえて
体(身)で触れることで触覚をえて
頭(意)で考えることで意識(意識界)を働かせて世界を把握したつもりになっています。
しかし、あらゆるものが大きなつながりのなかにあると知ったときには
私たちの知の向こう側にたえず躍動する世界が広がっていると気づくのです。

かくして、迷いの雲(無明)はひとりでに晴れていきます。
これまで迷いたくないと思いながら生きてきたことさえ馬鹿らしくなります(無無明尽)。
ずっと美しくありたいとかずっと若いままでいたいという迷いがなくなれば
老いや死(老死)を自然と受け入れられるようになります。
そのときには老いたくない、死にたくないと悩んでいたこと自体が馬鹿らしく思えます(無老死尽)。

仏教では初期のころから四聖諦の教えを尊んできました。これはすなわち、

苦しみのなかに生きているという現実を知り(苦)
苦しみにはその原因があることを知り(集)
苦しみのないさとりの世界があることを知り(滅)
苦しみのない世界へと進んでいく道を知る(道)

という具合に四つの真理(諦)を学んで苦しみの原因を離れていく教えです。
しかしながら、このような尊い教えでさえも
空というものを感じてあらゆるつながりのなかに身を置くことができたなら
もはや当たり前のことわりにすぎず無用のものとして映ることでしょう。

私たちは世界を把握(智)になっていますし
また把握した情報(得)にもとづいて周りの世界を変えようとついつい思いますが
世界はつながりのなかでたえず動いていますから
それを知によってとらえようとすること自体が無意味です。

仏教を生きる人たち(菩提薩埵)はこのような曇りない眼差しによって(般若波羅蜜多)
あらゆるとらわれ(罣礙)の心を離れて迷いなき世界へ入っていきます。
心にとらわれがないときにはもはや恐れおののくこと(恐怖)もなく
あやまった考え(顛倒夢想)にとらわれることもなく
ただひたすらにさとりの境地(涅槃)へと進んでいくのです。

過去・現在・未来(三世)のあらゆる尊い人たち(諸仏)もまた
やはりこのような曇りない眼差しによって迷いを離れ
比類なき(阿耨多羅)穏やかなさとりの境地(三藐三菩提)へと達しています。

(4) このような気づきをもたらしてくれるのは
以下に説く並ぶものなき祈りの言葉である(般若波羅蜜多是無等等咒)。
私たちはこの豊かな世界へと向かって行く(羯帝羯帝波羅羯帝)。
あらゆるものに幸あれ(娑婆訶)。

詳しく読む(4) 豊かな世界への祈りの言葉

<漢訳書き下し>
故に知るべし。般若波羅蜜多はこれ大神咒だいじんしゅなり。これ大明咒だいみょうしゅなり。これ無等等咒むとうどうしゅなり。
能く一切の苦を除き、真実にしてむなしからざるが故に。
般若波羅蜜多の咒を説く。すなわち咒を説いていわく、
羯諦ぎゃてい羯諦ぎゃてい 波羅羯諦はらぎゃてい 波羅僧羯諦はらそうぎゃてい 菩提娑婆訶ぼじそわか

<意訳>
このような気づきをもたらしてくれるもの、それはすなわち、
以下に説く大いなる祈りの言葉(大神咒)、
大いなるさとりへの祈りの言葉(大明咒)、
並ぶものなき祈りの言葉(無等等咒)です。
これこそあらゆる苦しみを離れていくための真実なる祈りの言葉です。

旅路を進めていったときに(羯諦)
彼の岸にたどりついたときに(波羅羯諦)
たどりつきおわったときに(波羅僧羯諦)
そこにさとり(菩提)があるだろう。
あらゆるものに幸あれ(娑婆訶)。