2017年の感慨

ストレスフリーな大掃除

住職になったぐらいから、本当に忙しくて、年末の大掃除にあまり精を出せていない。副住職時代には、12月に入ったあたりから、山門、本堂、庫裏の掃除など年末のメニューにとりかかって、「師走」という文字のごとくにバタバタと過ごしていたが、いまは大部分をスタッフの方々に任せている。

それを申し訳ないと思いつつ、しかし、それでいいかなぁとも思う。

お寺は多くの方々の共有財産であって、住職個人の私物ではない。だから、住職やその家族だけで掃除する必要もない。関わってくれている人たちがみんなで掃除し、護持運営していけばいいのである。

今年は特に、浄土系アイドル”てら*ぱるむす”のみんな(アイドルもスタッフも)が、大掃除を手伝ってくれた。私が「大掃除一緒にやらない?」と軽く言ったら、快く応じてくれた。去る12月27日、雪の舞い散るなかだったが、文句ひとつ言うことなく、数時間にわたって掃除に励んでくれた。本堂や庫裏の柱やら畳やら障子のさんやら窓ガラスやらを一つ一つ拭き上げ、見る見るうちに、お寺は綺麗になっていった。若い人たちが精いっぱい仕事したときの力は、やっぱりすごかった。

龍岸寺の年末のメニューに要する時間を数字に換算するとおよそ50~60時間だと思う。これを私が副住職をしていたころは、この半分ぐらいを担当していた。今年は、

  • 住職:わずか数時間
  • 先代住職ほか:20~30時間
  • てら*ぱるむす:20~30時間(手伝ってくれた7名×3~4時間)

という配分に変わった。これをすごく有難かったなどというと、私がいかにも掃除嫌いに思われてしまうかもしれないが、私を含めお寺の人の多くは掃除がさほど苦痛ではないはずである。苦痛だと思っていたら、広い境内を護持していく気なんて起こらず、早々に逃げ出したくなるだろう。それぐらい、お寺の日常に掃除は織り込まれている。しかしながら、私たち人間の時間には限りがあるのも事実であって、毎月めいっぱい仕事しているところに、数十時間のタスクが増える12月は、どう過ごすか悩みどころになるし、フラストレーションも蓄積する。それが私が生まれ育って以来のお寺の光景だったが、今年はアイドルたちのおかげでストレスフリーな師走を初体験させてもらった。実に感動的だった。

お寺にアイドルがいてよかったこと

継続は力なりとはよく言ったもので、”てら*ぱるむす”は、少しずついろんなところで認知されてきている。「フリースタイルな僧侶たち」第48号(11月20日発行)では以下のように大きく写真掲載してもらった。

来年2月12日には初めての東京遠征も決まった。

また、去る12月9日の京都文教大学のトークセッション(ともいきトーク)では、私だけでなく、”てら*ぱるむす”も一緒に登壇してパネリストをつとめさせていただいた。”てら*ぱるむす”は、トークセッションのオープニングに、ミニパフォーマンスも披露した。うら若い女の子、いや、菩薩のパフォーマンスというのは、お客さんの心をぐっとつかむ。同じくパネリストをつとめられた平岡聡京都文教大学学長は、トークセッション冒頭で「全部もっていかれた」と悔しがっていた。

仏教をテーマにしたトークならもちろん私が負けるはずもないが、ことパフォーマンスということになれば、”てら*ぱるむす”のメンバーに到底かなわない。これはたとえば地域活性化などを目指すうえで、大きな武器になる。私は日々本堂で勤行して木魚の音を近所に響かせることも、四季折々のお寺の行事も、すべて地域活性化のつもりでやっているけれど、その華やかさ、わかりやすさに関しては、軍配は”てら*ぱるむす”にあがる。”てら*ぱるむす”が地域活性化したいと話すと、ご近所の方々は大変喜んでくださるし、地域のお祭りにもオファーが届く。

まぁ、私はなにも張り合うつもりはなくて、要するに、餅は餅屋である。”てら*ぱるむす”が地域のお祭りやトークセッションの盛り上げ役をやってくれているおかげで、私は僧侶らしい活動に精を出せている。その一つが今年10月から毎月1回実施している「釈迦モニ」である。メニューは、坐禅や念仏のワーク(と言いつつ、これまで3回は坐禅ばかりだが)と仏教講座で、時間にして合計1時間30分から2時間ぐらいである。

仏教講座のほうは、以前にこのブログで「お釈迦さま以来、仏教が大切にしてきた根幹のところをしっかりととらえて、それを現代に生かしていく」と意図を語った通りのものにすべく、毎回資料を準備してのぞんでいる。これまでの3回は、お釈迦さま以前の時代の話から時代を追って仏教の本質を考察している。

私もあらゆる時代のあらゆる仏教の流れに精通しているわけではなく、その都度勉強しながらなんとか乗り切っているのが実状である。でも、たとえば「輪廻」ということひとつとってみても、この世界観がどのようにして生まれ、お釈迦さまはどのようにとらえ、また現代においてどういう意味を持つのかを考察してきた。単なる学問としての仏教ではなく、また、単なる信仰としての仏教でもなく、その両者のちょうどいいバランスのところに、ボールを投げているつもりである。

面白いのは、釈迦モニに来て坐禅を組んだ人が、午後から”てら*ぱるむす”のライブに行ったり、冥土喫茶ぴゅあらんどで龍岸寺を訪れた人が、釈迦モニにも来てくれたりしていることである。アイドルはじめ多様なコンテンツが龍岸寺で育まれているおかげで、釈迦モニもユニークな雰囲気の学びの場になっている。

そこに経典があるから

龍岸寺の本堂には、「国訳一切経」がどかーんと置いてある。

これは、あらゆる経典を集めた「大正新脩大蔵経」のうちメジャーなものをすべて訓読して註解したもので、全257冊になる。

一冊には、経典15巻から20巻が収められている。この前まで読んでいた「瑜伽師地論」全100巻は、「国訳一切経」では6冊に相当する。私は、「国訳一切経」の訓読1巻を音読するのをこの1年余りの朝勤行の習慣にしているが、1巻読み上げるには約1時間かかる。「国訳一切経」全257冊を音読し終えるには、数千時間かかる見込みである。

年末年始やお盆などのいわゆる繁忙期に朝1時間も本堂に座っているわけにもいかなかったりするから、理論通り1年に365巻読むことはできない。それでもこの1年で200巻以上を読んできた。これを20年間ぐらい続ければなんとか「国訳一切経」を通読できるということになる。できればこれを目指したい。

「なぜ、そこまでして経典を読むのか?」と問われたら「そこに経典があるから」というぐらいの理由しか見つからない。本堂にたたずむ経典群は、おそらく登山家が山並みを眺めたときに「登りたい」と思わせるのと同じような欲求を起こさせる。

わざわざ通読しなくても、「大正新脩大蔵経」にしたっていまどきデータベース化されているから、脳内のハードディスクに情報を詰め込む必要はないという人もいるだろう。しかし、読んでこそわかることもあるはずだし、私の率直な感覚としては、過去の英知をなんとか読み解いてみたいし、読めば読むほど「ああそうだったのか」と目から鱗が落ちる瞬間がおとずれる。鱗が落ちたところは下の写真のように付箋を貼ってさかのぼれるように記録している。簡単に言うと、付箋の数だけ賢くなったということになる。

それだけ賢くなったとしても、私の知性なんてたかがしれているが、仏教のとらえ方が多少マシになったなぁと思うこともある。先に書いた京都文教大学でのトークセッションの際に、「『フリースタイルな僧侶たち』の活動をなぜ始めたか」について説明するタイミングで、「宗派それぞれの様式としてのスタイルではなく、仏教本来のスタイルに立ち返って、現代を自由に模索したかったから」というような発言をした。

こういう表現の仕方が、意図せずして出てきたときに、『瑜伽師地論』などを通じて、仏教に通底するものを学んできた手ごたえを感じた。たとえば、浄土宗のスタイルの上では、「自力」と「他力」をわかつ。つまり自分の力で修行するか、阿弥陀仏の救済の力を頼るか、という区別で、浄土宗は後者をとる。それは自宗派の魅力を語るために、極めてよくできたスタイルだと思うけれど、実際のところ、「自力」も「他力」も、同じ仏教である。感覚的には90パーセント以上、同じである。

では仏教とはなにかというと、要するに輪廻という世俗内倫理から脱却である、と私はとらえている。輪廻というのは、地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天の六道を、生まれ変わっていく世界観である。善い行いをしたものは、幸せな未来を獲得し、逆に悪しき行いをしたものは、不幸な未来におちいる。現代でも、人間の心理として、「頑張ればきっと報われる。誰か認めてくれる」という期待を抱きながら、私たちは日々を生きている。「頑張った分、上司からも認められて、給料も上げてもらえて、経済的に円満な家庭生活も築ける」という、なんとなくの期待があるから、仕事に精を出す人は多いと思う。この枠組みを今生だけにとどめるのではなく、過去世から未来世までの大きな時間軸のなかでとらえるのが六道輪廻である。

しかしながら、いくら仕事で頑張っても報われない人がいる。まっとうに生きていても天災地変や不慮の事故などで命を落とす人がいる。この世の不条理をいかに受け入れるか、ということこそ、仏教本来の命題であり、これを輪廻的な生き方からの脱却だと言ってきたのだと私は理解している。そしてこの大きな命題からすれば、「自力」だろうが「他力」だろうが、アプローチの違いは大した問題ではなく、できるなら手を取り合っていくべきだろうと思う。

このような話を、「釈迦モニ」ではできるだけ深く話し、アイドルライブでは楽しく感じてもらう。そういう硬軟あわせもった場としてお寺が躍動し始めた、ということに私自身たいへん感慨深い今年の大みそかである。

本年もご縁をいただいた皆さま、どうも有難うございました。

そして2018年もどうぞよろしくお願いいたします。

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